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ゲッセマネって、どこ?

「誤字等の館・キリスト教用語編」の第6弾です。
例によって、これは本家「誤字等(ゴジラ)の館」を参考にさせていただている(直接的にいえばパクッている)ものです。ここに書くことには、本家は何の責任もありません。

さて、今回の言葉は私自身もよく間違えることなのですが。
最後の晩餐のあと、イエスが「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と祈ったのは、どこだったでしょうか。

googleで "ゲッセマネ" を検索すると、18,800件がヒットします。

でもこれは、少なくとも新共同訳、新改訳、口語訳では誤字です。

正解は "ゲツセマネ" です。これをgoogleで検索すると、なんとたった2,820件!
圧倒的多数で、「ゲツセマネ」は「ゲッセマネ」と書かれてしまっているのです。
なーんだ、間違えるのは私だけじゃなかったのか。

でも、「本当はゲツセマネだって知っているけど、読むときとかキーボードを叩くときとかゲッセマネになっちゃうんだよね」ならいいのだけど、「ゲッセマネが正解」だと思っていると、たとえば聖書の語句を検索するサイトやソフトで調べられなくて困りません?

ヘブライ語での発音は、どちらが近いのだろう。

キリストは罪を許可したの?

「誤字等の館・キリスト教用語編」の第5弾です。
例によって、これは本家「誤字等(ゴジラ)の館」を参考にさせていただている(直接的にいえばパクッている)ものです。ここに書くことには、本家は何の責任もありません。

さて、前回の最後にもちらっと書きましたが、「ゆるし」という言葉の表記が前々から気になっていたので、googleで調べてみました。
もちろん「ゆるし」だけだとキリスト教用語とはいえませんが、「罪のゆるし」という言い方であればこれはキリスト教用語として使われている場面が多いと思っていいでしょう。結果は、
"罪のゆるし" 6,710件

これが漢字だと、次の二種類の表記が見られます。
"罪の赦し" 22,000件
"罪の許し" 9,770件

おおよそ、2:1というところですね。

ここで、大字林で「ゆるす」を調べてみます
〔「緩(ゆる)し」「緩ふ」と同源〕
(1)罪や過失を、とがめだてしないことにする。また、服役中の人を放免する。《許・赦》
(2)願い・申し出などをききいれて、願いどおりにさせる。認める。許可する。《許・聴》
(以下、(11)までありますが省略。)
まず(1)として赦免の意味があって、その場合は「許す」も「赦す」も使えるということのようです。しかし(2)の「許可」の意味では、「許す」だけで「赦す」は当てられていません。
つまり、「…を赦す」だと「…を許可する」という意味にはなりませんが、「…を許す」の場合は「…を許可する」という意味にも取ることができるわけです。
たとえるなら次のような使い方ですね。
部下:「この仕事はヤバイんじゃないでしょうか」
上司:「俺が許す」


要するに「キリストは罪を赦す」と書いた場合は「キリストは、罪ある人のその罪を、もはやとがめだてしない」という意味ですが、「キリストは罪を許す」と書いた場合は「キリストは、罪在る人のその罪を、もはやとがめだてしない」という意味にも、「キリストは、罪を犯すことを、さしつかえないと認める」という意味にもなります。

ただ、じゃあ「赦す」を使えばよいかというとこの字は実は常用外なのです。といっても常用漢字というのは「この字を使わなければならない」などという制限はないのですが、少なくとも義務教育では習わない漢字です。
でも「キリストは罪を許可する」という意味の文章になってしまうくらいなら、「赦す」と書くか、「ゆるす」とカナで書いたほうがいいのではないでしょうか。たとえば「障害者」を「障がい者」と書く人のように。(本来は「障碍者」ですが、「碍」が常用外となったとき、同音の(しかしまったく意味の違う)「障害」と書くようになったもの)

上記引用にある「緩し」から考えると、もちろんこれは素人考えなのですが、もともとの(つまり漢字が伝わる前の)日本語では、「ゆるい」的な言葉が「許可する」の意味でも「赦免する」の意味でも使われていたのではないかとも思えます。つまり漢字が伝わったとき、「赦」の訳としても「許」の訳としても「ゆるし」という日本語は使えたのではないかと。
ただ字自体の意味は、漢字字典によればやはり「赦」には「あやまちを許す」の意味はあっても「許可する」というような説明はなく、「許」には「許可する」の意味はあっても「あやまちを許す」の説明はありませんでした。(ということは、赦免の意味で「許す」と書くのは、誤用が定着したものでしょうか。)


ところで、先ほど「障がい者」と書いたので思い出してしまったのですが、最近は教会関係でも「子供」と書くのを嫌って「子ども」と交ぜ書きにするところが増えているように感じます。

「子供」は「子を供える」だからいかんという説を聞いたことがありますが、この方面は得意ではないのですがどう読み下しても「子を供える」と読むのは無理があると感じます。
「子供と書くのは、子を大人の『お供』扱いしている」というのも聞いたことがありますが、「子は供」と読み下すのもかなり違和感を覚えます。
読み下すとしたら「子が供える」というあたりが無理がないのではなと思うのですが。としたら(「供える」のは神職のつとめですから)プロテスタントの万民祭司思想からはむしろ積極的に「子供」と書くほうがいいくらいですね。

何より問題なのは、「誰々ども」というのは「誰々」を低くする言い方だという点です。「わたしども」がいい例ですね。ちなみに大字林で「ども」を調べると「人を表す場合、現代語では「たち」にくらべて敬意が低く、目下の者や見下した意味合いに用いられる。」という補足が付されていました。
「子ども」と書く教会では、婦人会は「女ども」、青年会や壮年会は「野郎ども」なのでしょうか。それとも、子供についてだけ「子ども」と見下した表現をしているのでしょうか。
どうしても「子供」と書きたくないなら、「子ども」ではなく「こども」でしょう。

恵みとか救いとか、預かってどうするの?

「誤字等の館・キリスト教編」の第4弾。
これまでキリスト教用語についての(たぶん)教会外での勘違い誤用について調べてみました(ただ、教会やクリスチャンのサイトでの誤字も含まれていましたが)。
今回から何回かは、クリスチャンが間違えているキリスト教用語についてです。まずは、以前から気になっていた「救いに預かる」という言葉から。

なお、これは本家「誤字等(ゴジラ)の館」を参考にさせていただている(直接的にいえばパクッている)ものです。ここに書くことは本家には何の責任もありません。

さて。「あずかる」だけなら一般的な日本語ですが、「恵みにあずかる」「救いにあずかる」ということであれば、これはほぼキリスト教表現でしよう。

"恵みにあずかる" 1,050件
"救いにあずかる" 874件

"恵みに与る" 895件
"恵みに与かる" 128件
"救いに与る" 990件
"救いに与かる" 79件

"恵みに預かる" 310件
"恵みに預る" 2件
"救いに預かる" 874件
"救いに預かる" 2件

「与」派が合計2,092件。「預」派が合計1,188件。合計でみるとだいたい2:1で、しかも「救いに与る」と「救いに預かる」だけ比べると拮抗してます。
「単純な変換ミス」だけではない割合と思われます。「救い/恵みに預かる」と書いている人は、それで正しいと思って使っていることが多いのではないかと。
でも「預かってどうするんだろう」とは思わないのだろうか。

「救いに預かる」と書いている人は、「救いにあずかる」ということがどういうことかわかっていません。
というのは、「預かる」と言う言葉は次のような意味だからです。(ちなみに「預る」は誤りです。)
(1)金品や人の身柄を手もとに置き、その保管や世話を引き受ける。
(2)物事の管理や運営をまかされてする。
(3)紛争や勝負の決着を引き受けて保留にする。
…どれをとっても「恵みに預かる」「救いに預かる」の意味として当てはまりそうにありません。「恵みを保管する」「恵みの世話をする」「恵みの運営をまかされてする」「恵みを保留にする」って、いったい何者ですかという感じです。
一方、「与る」という言葉の意味は次のようになります。(ちなみに「与かる」は誤りです)
(1)物事に関係する。かかわる。関与する。
(2)(目上の人の)好意や恩恵を受ける。
(3)分け前をもらう。
「恵みに与る」「救いに与る」は(2)の意味ですね。
あるいは異邦人キリスト者にとって(3)でしょうか(マルコ7:28)。

実は大字林では、「与る」の項目に
「預かる」と同源
とも書かれているのですが、恵みや救いについて「預かる」と言っては、上述の通り「一体何者ですか」というところです。キリストを差し置いて「私が神と人との間に立つ仲保者、大祭司です」といわんばかり。やはり「に預る」は誤字というぺきでしょう。
「私がこの恵みに与ったのは、預め(あらかじめ)神の計画に定められていた」ということなら誤用とまでは言えませんが、そこまで読み取るのは難しいでしよう。

今、「預め(あらかじめ)」と書きました。国語辞典で「あらかじめ」を引くと「予」の方しか出てきませんが、漢和辞典で「預」を引くとまず「あらかじめ」という意味が、「あずかる」「あずける」より先に出てきます。実は、「預」は「豫」の異字で、「予」は「豫」の略字。つまり「予」と「預」はもともと同じ宇なのです。
教会ではしばしば、「預言とは『神の言葉を預かる』ということであって、あらかじめ言うだけの『予言』とは異なり…」という説明がされ、国語辞典でも「予言」と「預言」の意味の違いは宗教的ニュアンスの有無に置いています。
実際に国語辞典のいうとおり「預書」「予言」は使い分けられているのですが、それは「預言」という一つの語彙として意味を持っているというべきなのでしょう。たとえば「いなか」を「田舎」と書くように。それを「(神の)言葉を預かる」のように分解してしまうなら、「預かる」の意味は上記のとおりですから、「神の言葉を保管、世話、管理、運営、保留する」という、大それたことになってしまうのです。

神の言葉とは、人が預かれるようなものなのか。そう考えると、牧師などメッセンジャーのために祈るときに「通り良き管(くだ)として」という表現を好む方がいますが、あれはいい表現だなと感じます。

話を戻すと、実は「ゆるしにあずかる」も含めて考えようと思ったのですが、これはまた別の問題があるので、次回に。

「三昧一体」って、どう読んだらいいんだか

「誤字等の館・キリスト教編」の第三弾は、キリスト教用語でありながらすでにキリスト教を離れて広く使われるようになっている「三位一体」という言葉について。
なお、これは本家「誤字等(ゴジラ)の館」を参考にさせていただている(直接的にいえばパクッている)ものです。ここに書くことは本家には何の責任もありません。

さて、今回もgoogleで調べてみましたが。

"三位一体" 2,320,000件
"三味一体" 6,769件
"三昧一体" 195件
"三身一体" 5,790件
"三見一体" 129件

中には「三位一体」を意議的にもじっていると思われるものもあります。特に料理関係のサイトで「三味一体」としているのは、たぶんですが、わざとひねったものでしょう。
しかし、料理等とは関係ないサイトで「三味一体」というのはよくわかりません。
特に、"三味一体"で検索して最初にヒットするのは年金保険の商品名。商品情報に「三味一体の"三味"とは」と説明がありますが、なるほど三つの味があるんだなとは思えても、「一体」の部分がわかりません。勘違いで商品名をつけたとも思えませんが、洒落たつもりならセンスを疑います。

誤字はミスもあるでしょうが、「さんみいったい」を変換しても「さんみ」でも、少なくともIMEでは「三見」は出ても「三味」は出てこないと思います。ということは、「さんみいったい」を「三つのことなるものが、一体であるかのように」という意味だと思い込んで(そして思い込んでしまった以上は辞書を調べようとも思わないで)、。結果、「み」が「位」とは想像もできず、でも「三見」はちがうよなと思って、「味」にしてしまう、というところでしょうか。

ところが、キリスト教徒にとっては迷惑なことに、たとえば大字林では次のように説明されているのです。
(1)〔doctrine of Trinity〕キリスト教の根本教義の一つで、三位はすべて本質(ウーシア)において同一であり、唯一神はこの三つをもつ実体であるという考え方。三位一体論。三一論。
(2)三つのものが、一つの物の三つの側面であること。また、三者が心を合わせること。 「親と学校と地域が―となって子供を守る」

なるほど、この(2)の説明の用例からは「三者が一つになって」という意味で使える言葉となります。でもそれでは、「なぜ位という字なのか」がわからないでしょう。
この説明の(2)の前半部分「三つのものが、一つの物の三つの側面であること」というのは、実体は一つということで(1)と同じことを言っているし、「また、」以下では、実体は三つと言っているのですからまったく別のことを言っているので、「また、」以下は(3)としたほうがいいでしょう。
(もしかすると「実体において同一である三つのもの」が心を合わせるということを言いたかったのかもしれませんが、だとすると用例が用例になっていないし。)

いっそのこと、「三つの実体が、一つの実体であるかのように」という意味で「三味一体」か「三身一体」という言葉を作るのがいいかもしれません。

まあ、キリスト教の方でも、普通の名詞だった「神」という日本語の意味を変更してしまいましたから、キリスト教用語の「三位一体」の意味を日本人が変更してもお互い様なところがあります。
だとしても、間違いをさらしているような誤字はどうかと思います。「三昧一体」なんていうのは、「三味一体」が正しいと勘違いした上で、ひねったつもりになって得意がっているとしか思えないのですが。

さて、今回までの3回は、実は前フリです。           ‘
これまでは「キリスト教用語についての、キリスト教界外での誤字誤用」を見てきましたが、次回からは「キリスト教用語についての、キリスト教界内での誤字誤用」を予定しています。

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「父、子、精霊」は誤字です。

キリスト教用語に関して誤字等(ゴジラ)の館をまねる第2弾。まずは、googleで検索したヒット数から。

"父と子と聖霊" …15,200件"父と子と精霊" …5,240件

約1/4が「精霊」です。ちなみに次のような検索だと、
キリスト 聖霊 …206,000件キリスト 精霊 …133,000件

「精霊」派が1/3を超えてきます。

これは誤字です。というのは「父と子と聖霊」というのはいずれも、キリスト教の神を表すものだからです。いわゆる三位一体のことで「唯一である神は、父という位、子という位(キリストのこと)、聖霊という位において存在する」という教義です。
一方、「父と子と精霊」と並べる理由は(聖霊と精霊を取り違えた上で、その取り違えに意味を見出そうとして理由を作った場合を除けば)ないはずです。

「聖霊」と書かれるべきところで「精霊」と書いているのは、本家の誤字等の館であれば、「誤変科(ごへんか)」か「取違科(とりいか)」に分類される誤字です。実は教会関係のサイトや、クリスチャンによると思われるサイトでも「精霊」と書いているところもあるのですが、いくらなんでもそれはミスによる誤変換でしょう。思わずあわてて、私自身のサイトも確認してしまいました。

でもキリスト教関係以外では、「精霊」で正しいと思っているのではないでしょうか。「聖霊」というキリスト教用語は知らないけど「精霊」という言葉なら知っている、という人は多いでしょうし、その場合「ちちと、こと、せいれい」と聞いて「精霊」と理解してしまうのも自然なこと。ミスによる誤変換ではなく、誤解と思い込みによる誤変換。「キリスト教でいう聖霊とは、精霊ではなくて」と両方でてくるページもありますが、約1/4ともなるとすでにその表記で市民権を得てしまっているレベルではないかと思います。

ミスではなく誤解だとすると。「精霊」と書いている人に「『父と子と』と並べるなら『聖霊』ですよ」と指摘してあげたとしても、「聖霊とは、精霊たちの中でも特別な精霊のことであろう」と思われるだけかもしれません。誤解に拍車をかけて、聖霊とは「唯一なる神(の位格の一つ)」と理解するより先に「one of 精霊」と理解されてしまうのではないかと。
でも聖霊をちゃんと説明するのも、簡単な話ではなく。

という以前に、「三位一体」にも誤字がいろいろ。。。

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