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御名をあがめてます?

いわゆる「主の祈り」を、礼拝でささげる教会は多いと思います。
主の祈りでは、冒頭で父の名があがめられるようにと祈ります。邦訳もいろいろありますが、たとえば教団賛美歌(1959版)では次のように始まります。
天にまします我らの父よ
ねがわくはみ名をあがめさせたまえ

ただ気になるのは、私の知る範囲の教会では、子の「イエス」という名を呼ぶことはあっても、父の御名が呼ばれることはほとんどないという点です。

私が育った教会学校でも毎週の礼拝で「主の祈り」をささげていました。ところが、「我らの父」の「御名」を聞いたおぼえはありません。つまり教会学校の子供たちは、知りもしない御名をあがめさせてくださいと祈っていたのです。

教会学校だけではありません。個人個人では、とくに文語訳世代なら「万軍のエホバ」というふうに御名を呼ぶ方もいらっしゃいます。でも礼拝や集会で牧師や司会者が父の御名を呼ぶのを聞いたことは、ほとんどありません。説教の中で文脈上というか釈義上で必要な場合を除き、タブーになっているかのようにさえ感じます。

旧約聖書で神の名を表すいわゆる「神聖四文字」の正確な発音がわからないということは私も知っています。
でも、正確な発音でなければ呼んではいけない、ということだとすると「イエス」だって正確ではありません。そもそも日本語でも、同じ教会の中でも、賛美歌などでは都合にあわせて「イエス(i-e-su)」にしたり、「イェス(ye-su)」にしたりと、便利に発音を変えています。(現代ヘブライ語の発音には「ye-su」のほうが近いように感じますし、「i-e-su」よりは「ヤソ」の方が原音に近いのではとも思うのですが。)

もしかして「御名をあがめさせたまえ」というのは、「御名をあがめられるように、どうぞ発音を教えてください」という祈りなのでしょうか。というのは冗談ですが(冗談になってますよね?)。

教会では「神よ、」とは呼ぴます。でも「神」は、「父」の「御名」ではなく、一般的な名詞です。「神よ」と呼んだら、天照大神や、菅原道真公や靖国の英霊が返事するかもしれません。松下幸之助さん(経営の神様)や、手塚治虫さん(マンガの神様)や、カール・ゴッチさん(プロレスの神様)や、八木裕さん(代打の神様)が「自分が呼ばれた」と思うかもしれません。
クリスチャンから「そうした存在は神と呼ばれているだけだ」と叱られそうなことを書いているようですが、まさにその呼び方の問題なのです。キリスト教が来る前から日本語で使われていた「神」という言葉をキリスト教も使うことにした以上、区別するにはやはり御名で呼ぶしかないのではないかと思うのですが。(そもそも、キリスト教が神と呼んでいるお方は、実際には神ではなく、神以上の存在です。それを、日本語の「神」が現わす存在たちと同じところに引きずりおろしてしまっているように思います。)

いずれにせよ「神よ」では、「御名をあがめ」たことにはなりません。
教会では「主よ、」とも呼ぴます。でもこれも御名ではありません。いわば称号ですね。つまり「キリスト」が称号であるのと同様に、「主よ」では「御名をあがめ」たことにはなりません。
たとえば、迷子が「お父さんのお名前は」と聞かれたときに、「父です」「世帯主です」などと答えたらおかしいですよね。それと同じように、「父」は「父の名」ではないし、「神」は「神の名」ではないし、「主」は「主の名」ではないのです。

日本語には、たとえば「おわびします」と言えばもうそれ以上おわびの言葉を述べなくても、わびたことになるという性質があります。それと同じように「御名をあがめます」といえば、実際には御名を知らなくても、御名をあがめたことになる、ということもあるのかなとも思います。
でも私は、実際に御名をあがめたいのです。ことに文語訳世代の方がごく自然に「エホバ」と口にするのを聴くと、うらやましささえ感じてしまいます。私が文語訳聖書を音読しても、どうしても付け焼刃にしかなりませんから。私は口語訳聖書で育って、現在は新共同訳聖書をおもに使用しているのですが、これらの邦訳によって「御名をあがめる」ことを取り上げられてしまったような気さえするのです。

イースターから50日目がペンテコステ?

キリスト教の三大例大祭といえば、降誕祭(クリスマス)、復活祭(イースター)、そして聖霊降臨日(ペンテコステ)。このうちクリスマスは12月25日固定ですが、復活祭と聖霊降臨日は移動祝日で日付が毎年かわります。ただ、「復活祭から50日目(49日後、7週後)の日曜日が聖霊降臨日」という関係は一定です。

ですが、なぜ50日後なのかがよくわからないのです。
確かに、聖霊降臨があった日については使徒言行録2章1に「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、」と明記されています。この五旬祭とは「50日目の祭り」の意味です。
五旬祭が「50日目の祭り」であるというこの「50日目」とは、過越し祭から数えて50日目(49日後)ということです。
一方、主イエスの復活が過越し祭よりあとだということは、聖書から明らかです。イエスは弟子たちとともに過越しの食事をしました。いわゆる「最後の晩餐」で、教会によっては復活祭の前の木曜日(聖木曜日または洗足木曜日とも)の晩に記念しています。イエスはこの過越し祭の食事のあとゲツセマネでとらえられ、金曜の午後に十字架で死に、夕方(日没で日付が変わって安息日が始まる前)に葬られ、三日目(ニ日後)の日曜日の朝に復活したわけです。
で、聖霊降臨があったのは五旬祭つまり過越し祭から50日目。現在、「(キリスト教の)聖木曜日」と「(ユダヤ教の)過越し祭」は必ずしも同日となりませんが、現在「聖木曜日」と呼ばれている日が「過越しの食事の日」だったとして記念されるのであれば、この木曜日から50日を数えなければならないはずです。
より正確に言えば、洗足木曜の聖餐式を行っている教会では木曜の日没後に聖餐式を行いますが、(現代の教会暦もそうですが)主イエスの時代は日没で日付が変わります。つまり「聖木曜日の日没から、聖金曜日の日没まで」から50日を数えることになり、聖霊降臨があったのは昼間ですから、2009年のカレンダーでいえば5/29(金)が聖霊降臨日にあたるということになります。


ところで、ここまで意図的に「ペンテコステ」という言葉を極力避けてきました。というのも、ペンテコステが何を指すのかが、不勉強なもので私にはよくわからないからです。
言葉の意味としては、ギリシャ語の「50番目、50日目」から来ているというのは聞いていますが。
「一同」は「過越し祭から50日目」を記念するために集まっていたけれど、それとは関係なく現代の教会では「主の復活から50日目」を記念する、という意味であれば、「ペンテコステとは聖霊降臨(を記念する)日のこと」という意味なのでしょう。
ただ気になるのは、50日目の意味から来ているこのギリシャ語は、「五旬祭」をギリシャ語に訳したものなのではないかというところなのです。もしそうであるなら「ペンテコステとは聖霊降臨日のことで」というのは間違いで、正しくは「ペンテコステ(五旬祭)の日に聖霊降臨があって」ということになります。
このあたりは、当時の「ギリシャ語を話すユダヤ人」が五旬祭をなんと呼んでいたかを調べる機会があったらまた書きたいと思います。

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靖国合祀拒否訴訟が棄却されたこと

先週のことですが、大阪地裁は、大東亜戦争中に戦死し靖国神社に合祀された9人について遺族が合祀取消しなどを求めていた裁判で、請求を棄却しました。
遺族の方には納得いかない気分もあるのでしょうけれど、地裁判決とはいえもし請求が認められていたら、信教の自由の大きな危機になるところでした。

もし請求が認められていたら、それは、誰かがある宗教に対して「それを神とするな」と求めることができるようになるということです。
靖国神社がある人から「この人を神とするな」と言われて認めなければならないのであれば、キリスト教もたとえばエホバの証人から「イエスを神とするな」と言われたら認めなければならなくなります。

もし請求が認められていたら、それは「ある宗教が何(誰)を神とするか」を司法が決めることができるようになるということです。
司法が靖国神社に対して「これこれの者を祀ってはいけない」と言えるようになるということは、司法が教会に対して「キリストを礼拝してはいけない」と言うこともできるようになるということです。

先ほど「信教の自由の大きな危機」とは書きましたが、私は礼拝を禁じられても礼拝しますし、誰かに「イエスは神ではない」と言われても、いえ私自身が否定しても、イエスはキリストであり、キリストは神です。(だから、司法でも行政でも律法でもマスコミでも世論でも、私に「キリストを礼拝するな」といっても意味を持ちません。今の私には無理かもしれませんが理想としては、投獄されてもパウロたちのように礼拝し続け、拷問されてもぺトロたちのように「御名のために恥を加えられるに足る者とされた」と喜び、よしんば殺されても「私より前の預言者たちと一緒だ。幸いなるかな」と賛美しつつ神の国に昇りたい。今は根性なしですが、「おくびょうの霊」が取り除かれ聖霊に満たされたいと思う。)
でも私は「仮に教会で礼拝できない世になっても、礼拝はどこででもできる」というだけであって、「教会で礼拝できなくなってもよい」というわけではありません。それにクリスチヤンの中には「礼拝できないような世の中になったら」ということを心配して政教分離を訴える人もいます。「司法が宗教に介入できる」という判断が出されなくてよかったと思います。

それに、この裁判の判決が違っていたら、多くの教会が訴えられるところでした。請求は「意思に反して無断で合祀された」ということを問題としていたとのことですから。
故人本人がキリスト教徒でなくても「教会のメンバーの家族だから」ということで葬儀を受け入れる教会は少なくないです。そういう教会にとっては、請求が認められていたら「遺族の中に一人でも『意思に反して勝手にキリスト教の天国にいることにされた』と訴える人がいたら」と心配しなければならなくなるところでした。
(教会員の家族であっても、本人がキリスト教徒でなければ葬儀をしない教会もあります。別の難しさがあるかとも思いますが、「信じれば救われる」と教えながら信じなかった人の葬儀をするよりは筋が通っていると思います。)

逆に、故人本人がキリスト教徒であっても、遺族の意向で仏式で葬儀が行われるということは、日本ではよくあることです。葬式をどのようにやるかは、故人ではなく喪主が決めることですから。
となると、「意思に反して神社に祀られた人」と「意思に反して成仏させられた人」とを差別しないためには、「家は仏教で、自分だけがクリスチャン」という教会員が仏式で葬儀されるたびに訴えなきゃならなくなってしまいます(遺族でもない教会が原告になりえるのかわかりませんが)。

遺族にとっては「意思に反して勝手に祀られている」という状態は感情を害するところだろうなとは思いますが、私は死後観が違うのでなんともいえないのです。というのも、私はキリスト教徒で「生きている人間が故人をどのように扱おうと、肝心なのは(故人)本人の信仰」という宗教なので。
生前にすでにクリスチャンにしていただいた私は、死後にたとえ靖国神社に祀られるようなことがあったとしても(ないでしょうけれど)、あるいは大事故にでも巻き込まれて合同慰霊祭されたり慰霊碑を建てられたり高僧が成仏を祈願(というのでしょうか)してくれたとしても、あるいは無宗教式の葬儀埋葬をされたって、私は死後にはキリストの御国に移されているのです。家族には、もし私の死後にそういうことがあったとしたら「そこには信生はいないのに、『的外れ』なことを」と思えばいいと言っておこう。

ところで、法学には素人の私が考えることですが、たぶん唯一、靖国神社から特定の祭神を除かせる方法があります。靖国神社を宗教ではないとした上で国有化し、靖国神社のことはすべて国会で決定するように法律で定めるのです。
そうすれば国が靖国神社に何をしても、宗教でないとした以上は国の宗教に対する介入ではない。国民が望めば、国民を代表する国会で、霊璽簿から特定の名前を削除することを決めることもできるでしょう。霊璽簿から名前を削るだけで「英霊でなくなる」のかはわかりませんが、その点も法律上また手続き上「霊璽簿に名前があるのが靖国神社の祭神である」と定義すればOK。

靖国神社自身も、靖国神社の国家護持を求める人も、こんなやり方には抵抗するでしょうけど。
靖国神社に反対する人も、靖国神社の国営に賛成するとは思えないのですけどね。「靖国は宗教にあらず」と言った時点で反発するでしょ?でも、靖国神社が「宗教であるまま」でそれに対して「ああしろこうしろ」と求めるということは、自身が奉じる宗教に対して同じことを求められてもよいということです。
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その聖書引用の意味がわかりません

キリスト教徒は、イエス・キリストから直々に「世の光たれ」「(世の防腐剤である)地の塩たれ」と命じられています。世から離れた、キリスト教ムラの中だけでの光や塩でいることは許されていないわけです。というわけでキリスト教徒は、個人においても、教会においても、教団や教派というグループにおいても、警世の士であらねばならないわけです。
というわけで、教会や教団教派で、世の中の問題ごとに対して糾弾の声明を出すことがよくあります。

…ここまではいいのですが。

この種の声明でよくあるフォーマットで、どうも腑に落ちないところがあるのです。わかりやすい例として、日本キリスト教協議会(以下、引用文中を除きNCCと略す)が2008年9月11日付けで法務大臣宛に出した、死刑執行に対する抗議文から引用します。(全文はこちらにあります。

…私たち日本キリスト教協議会は、すべての人のいのちは神から与えられたものであるという立場から、人間の力によって人のいのちを奪う死刑執行に反対する立場を表明してきました。私たちは、私たち人間が作り出すどのような力によっても、「ひとつのいのち」の存在の是非を操作しうるものでないということ、人のいのちの存在の始まりと終わりを決めるのは、いつも神のみであると信じています。その神は次のように私たちに語ります。『復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい』(レビ記19章18節)と私たちに教えています。…

「私たち日本キリスト教協議会は」ではじまるこの文章に対して、NCCに属していない私もキリスト者としては同意します[注1]。ただ、では実際に「ひとつのいのち」の存在の是非を操作した殺人者に対してどうするべきかという答えにはなっていませんし、キリスト者でない(つまり「復讐してはならない」という教えを含む聖書を啓典として受け入れていない)人がほとんどである日本人に押し付ける理由にもならないと思いますが、今は死刑の是非について言いたいのではなく、腑に落ちないというのは、彼らがこれを法務大臣に宛てて書いているという点です。

私はキリスト者として、神の言葉である聖書の権威を認めるものです。ですが、日本国の法務大臣は、聖書の権威を認める者ではありません。
何が言いたいかというと、キリスト者がキリスト者以外に対して「聖書にこう書いてあるのだから」という論理で意見することの意味です。

キリスト教徒でない人にとって、キリスト教徒から「聖書にこう書いてあるのだから」という論理で意見されるのは、キリスト教徒にとってモルモン教徒から「モルモン経にこう書いてあるのだから」という論理で意見されるとか、統一教会の人から「統一原理でこう教えているのだから」という論理で意見されるのと、まったく同じだということです。仮に相手の意見が賛成できることだとしても、「モルモン経の教えに従いなさい」「統一原理に従いなさい」では、キリスト者で同意する人はほとんどいないのではないでしょうか。

もちろん私は、聖書の権威とは、人が「権威がある」と認めるかどうかによるものではないことを信仰において告白する者です。聖書を、他の宗教の経典と同列にされるわけにはいかないと考える者です。が、それは私がキリスト教徒だからそれを知っているというだけです。

聖書に権威があることを(まだ)知らない相手に対して、聖書を論拠に訴えてどうなると思っているのかが、まったくわからないのです。かえって、「それはあなたたちが勝手に信じているだけで、私には関係ありません」と聖書を軽んじさせるだけではないかと思うのです。

ついでに言うと、仮に法務大臣がキリスト者だとしても、NCC自身が政教分離を訴えています。行政府の一員たる法務大臣が特定の宗教に重きを置くことは、NCC自身が反対しているはずです。

なのに聖書を引用する。
何のために?

「聖書にこう書いてあるから」という声明に相手が同意した瞬間に「政教分離違反だ」という声明を出すのでしょうか。それとも「他の宗教とは政教分離!ただし自分たちの宗教とならOK」と考えているのでしょうか。
そのどちらかだとしか考えられないのですが、まさか前者のようなあくどい罠を張っているとは思いたくないし、後者にしてもキリスト教徒の「政教分離」とはまず教会と政治とが接近した過ちを反省から来ているはずですから、ないはず、と思いたい。
だとすると、何のために?

上記引用はあくまでも例ですが、国や政治家に向けた声明を出すキリスト教団体の多く、少なくとも私が見た範囲では覚えている限りが、聖書の言葉を声明中に引用します。(さらに、私が見た範囲では覚えている限りすべてが、普段は政教分離を主張している人たちだったりする)。
政教分離の「政」にあたらない人々に向けた声明でも聖書を引用していますが、いずれにせよ、声明文の中に「私たちキリスト教徒は、聖書によってこう考えているのです」という書き方をしたら、「はいはい、あなたたちはそう信仰しているのね。でも私はちがうのよ」以外の反応は期待できないし、まして相手が国や政治家ならそのような反応しかできないのです。
こう考えると、そのような声明は出すだけ無駄、いえむしろ逆効果で、出す側の自己満足にしかならないようにさえ思うのです。

念のためですが、「キリスト者が声明を出すこと」が無駄といっているのではありません。「聖書を論拠にした声明を、聖書を奉じない(もしくは聖書を奉じることを許されない)相手に出すことについて言っているのです。少なくとも、一体どういう結果を期待しているのか見当もつきません。

注1:プロフィールに書いているとおり、現在私は、日本バプテスト連盟(以下、バプ連)の教会で客員教会員、日本同盟キリスト教団(以下、同盟教団)の教会で教会員という立場です。そして同盟教団はNCCに参加していませんが、バプ連はNCCに参加しています。(「日本キリスト教協議会」という名前がキリスト教関係者以外には誤解を与えるのですが、その声明は日本の全てのキリスト教徒の意見を代表するものではありません。団体名は「キリスト教協議会の日本版」といったところです。)
客員とはいえバプ連の教会に連なっている以上は、「属していない」というのは客観的公正に欠ける言い方だと思いますが、現在信仰生活のほとんどをバプ連の教会で守っていながら正式に転会しないでいる理由の一つがNCCの政治的姿勢であるため、ここではあえて「属していない」と書きました。
…もしいつか転会する思いが与えられたら逆に遠慮しなくなりそうで(今は「彼らは」という批評で済んでいますが、それが「私たちは」になったらねぇ。)

なぜ特定の祝日に対してだけ反対するのだろう

もうすぐ「建国記念の日」ですが、今年も全国で、この日を奉祝する集会や、この日に反対する集会が開かれるようです。

キリスト教関係では反対するほうがほとんどのように見受けますが、そして反対する人は「昭和の日」「天皇誕生日」にも反対していることが多い印象を持つのですが、なぜこれらにだけ反対するのかがよくわからないのですが。WEBで検索すると「海の日」くらいまでは反対集会などあったようですが、そうした勢いでたとえば「春分の日」に対する反対集会というのは寡聞なのが不思議なのです。

「2月11日を建国記念の日とする科学的な根拠がないから反対」という意見を聞いたことがあります。これを他の人が言うのはともかくキリスト者が言うのは「同様に、12月25日に降誕を記念する科学的な根拠もないから反対」ということですよね。

「建国記念の日は紀元節が名前を変えただけではないか」という意見を聞いていますが、「春分の日は春季皇霊祭が名前を変えただけ」「秋分の日は秋季皇霊祭が名前を変えただけ」「文化の日は明治天皇誕生日、昔の天長節が名前を変えただけ」だからということで反対しないのはなぜなのだろう。

「建国記念の日」「昭和の日」「天皇誕生日」「海の日」などについて「天皇制との関連が深いから、キリスト者として反対」という意見を聞いたことがあります。
「キリスト者として反対」ということであれば、春分の日は祝日法で「自然をたたえ、生物をいつくしむ」と定められていますが、創造者をたたえる者として「被造物をたたえることを法律で定めている」のはかまわない?
みどりの日は祝日法で「自然に親しむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ。」と定められていますが、創造者の恩恵に感謝する者として「被造物である自然の恩恵に感謝することを法律で定めている」という点はかまわない?
秋分の日は祝日法で「祖先をうやまい、なくなつた人々をしのぶ。」と定められていて、秋季皇霊祭や秋のお彼岸との関連を法律に謳っているようなものですが、思想信条の自由の観点から、祖先崇拝の強制を心配しなくてよい?

建国記念の日について祝日法で「国を愛する心を養う」と定めているのは「内心の自由の強制だ」という意見を聞いたことがあるのですが、それを言うなら祝日法で定めている祝日すべてが「内心の自由の強制」ではないかと思うのですが。
たとえば元日は祝日法で「年の初めを祝う」とされています。年の初めを祝うことの是非はともかく「何を祝うかを法律で定められている」ということは内心の自由を侵していることにならないの?
こどもの日は祝日法で「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」とされています。母に感謝することの是非はともかく「誰に感謝するかを法律で定められている」ということは内心の自由を侵していることにならないの?
敬老の日は祝日法で「老人を敬愛し、長寿を祝う」とされています。老人を敬愛することの是非はともかく「誰を敬愛するか」を法律で定められているのは内心の自由を侵していることにならないの?
文化の日は祝日法で「自由と平和を愛し、文化をすすめる」とされています。自由と平和を愛することの是非はともかく「何を愛するかを法律で定められている」というのは内心の自由を侵していることにならない?
勤労感謝の日は祝日法で「勤労をたつとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう」とされています。内容の是非はともかく、「何を貴び何を祝うかを法律で定められている」ということは内心の自由を侵していることにならないの?

念のためですが、私は「秋分の日」や「元日」に反対するべきだと言っているのではありません。
ある「特定の祝日」に対する、私が聞いている範囲での「反対する理由」が、どうしてその「特定の祝日」に対してだけ向けられるのかがわからないのです。

たとえば、ある無神論者のように『全ての』祝日法定に反対するというなら、賛同できるかはともかく筋は通ってると思うのですが。

もう一つ分からないのは、たとえば「建国記念の日」を祝日と認めないからということでこの日を平日として営業?する団体や出勤するキリスト者がいるのは自由として、(たぶんそのすべてではないのでしょうが中には)代わりに別の日を休業日としたり代休を取る例があるという点です。「休みの日に休まなかった分の代わりに休む」のは普通ですが、「休みじゃない日に休まなかった分の代わりに休む」というのは、昭和の日に関するNCCの声明くらいに不可解です。
(NCCの「昭和の日」成立に反対する見解では、昭和の日に反対するだけ反対しておいて最後に、自分たちは自分たちのやり方で昭和の日をかえりみるという非常に「昭和の日」の趣旨にそったことを宣言しています。)

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