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8月15日

すでに昨日のことですが、終戦の日と呼ばれる8月15日の午前、思い立って、千葉県護国神社のとなりにある忠霊塔に行ってみました。忠霊塔(千葉県)

行事の準備がされている様子でしたが(正午から県知事が拝礼に行った模様⇒ニュース)、11:40頃の時点では人もそう多くなく、境内?にある「日中戦士鎮魂碑」などの縁起などをゆっくり見て回りました。

このところ教会学校の準備の関係でマザー・テレサのことを軽く調べたりしていたためか、彼女が愛したという「平和の祈り」が思い出されました。アッシジの聖フランチェスコによる、「ああ主よ、わたしをあなたの平和の道具にしてください。」で始まる有名な祈祷文です。カトリックではもとからもちいられたものかと思いますが、カトリック以外では、マザー・テレサに関連して有名になったものでしょう。
この祈りは、自分に与えられているタラントの範囲で「平和を実現する人」であることができるように、ということなのだろうと思います。では自分個人の力が及ばないところはどうしたらいいかというと、その名を「平和の君」ととなえられるキリストの再臨が早く成就するように祈ることが私にできる最善かつ最大のことなのだろうと思うのです。
などということを現場で考えたわけではないのですが、忠霊塔の前で私は戦歿者に思いをいたしつつ「主よ、きたりませ」と祈っていました。

キリスト教徒である麻生首相は、靖国神社にはいかなかったとのことです。
日本のキリスト教界でも左寄りの人の中には、何かor誰かに向かって頭を下げることはすべて宗教的行動だと考えている人もいるようですが、麻生氏はそうではないでしょうに。
諸外国のキリスト教徒の元首や政治家も靖国神社を訪れています。
麻生氏はカトリックですが、ローマ教皇庁は1936年に日本の信者に向けて「靖国参拝は宗教的行動でないため、日本の信徒は自由に参拝してよい」という通達を出しています。
まして麻生氏自身が3年前に「靖国に弥栄(いやさか)あれ」との論文で、「国家のために尊い命を投げ出した人々に対し、国家は最高の栄誉をもって祀らねばならない」ということを「普遍的な原則」と書いています。
麻生氏が今回、靖国神社を訪れることを見送ったのは、残念なことだなと思います。

たびたび書いていることですが、「靖国神社=戦死することの美化=次の戦争の準備」という非常に短絡的な考え方を主張する人たちがいますが私は賛成できません。というか、できなくなりました。
一昨年でしたか、日本バプテスト連盟(の社会部かどこかだったでしょうか)が主催した靖国神社見学会の折、戦死者の遺筆やその遺族の書いたものをかかげる「社頭掲示」を始めて見ました。帰りには、社頭掲示のバックナンバーである「英霊の言の葉」を購入し、それを読みもしました。それで感じた「こんな思いまでして戦地に送り出したんだ」「こんな思いまでして死地に出て行ったんだ」ということと、それと同時に「二度と誰もこんな思いをしちゃいけない、させちゃいけない」ということでした。
つまり、戦死者への顕彰の思いと、反戦平和の願いとは、決して反するものではないと思うのです。
戦死者を顕彰することは、むしろ反戦平和に資すると思うのです。靖国神社が社頭掲示をやめるとか、「戦死者の遺筆」などではなく入営者の血気盛んな言葉を掲示したりするようなことがあれば、その時こそ「次の戦争の準備」ということになるでしょうけれど。

などということを論理的に忠霊塔の前で考えていたわけでもないのですが、忠霊塔の前の広場を出るときなぜだか、振り向いて塔にむかって一礼しないではいられませんでした。
英霊をGodとして拝する気持ちは私にはありません。考えるより前に自然体で、私が拝するのは、キリストであり、キリストを私に賜った御父であり、キリストを私に示す聖霊です。
私が忠霊塔にむかって頭を垂れたのは、たぶん宗教的な意味ではなくて、敬意、礼儀、誓い、といったものだったのだろうと思います。

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