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予言してみよう

民主党の党首選がはじまりました。

菅陣営、小沢陣営とも、昨日の決起集会に出席した国会議員は約120人とのこと。この拮抗感がすでに演出くさいですね。
まあ、国民の支持はどうでも党内ではやはり小沢が勝つでしょう。

で、小沢が勝つような民主党なら国民の支持を得られるとは思えません。なぜ何のために、参院選前に党要職から退かなきゃいけなくなったんでしたかね。「有権者はもう忘れてるサ」とでも?
小沢が党首になったとして、首相やってる間に強制起訴の話がどうにかなれば、次の選挙が近づいたらまた責任を問われる立場から退くんじゃないかな。で、他の誰かが選挙に負けた責任をとらされると同時に小沢待望論が再燃して、という展開になる。

問題は、次の選挙まで日本が持つのかということと、それまでに自民党が少しはまともになるかということでしょう。

去年の衆院選の翌日、比例区当選した自民党候補の運動員が地元の駅で挨拶してたから、私は自民党員でもなんでもないのに声をかけました。「民主党なんか何もできっこないんだから、今こそ自民党がしっかりしてくれよ」って。

まあそのときは「社民党なんかと連立しちまった民主党には」というつもりだったので、社民党と手を切ってもダメダメとまでは読めなかったのだけど。

正直、世論調査でもあったら「社民党を切った鳩山」を支持すると答えてしまってた気がする。あの時は、総じて左なマスコミが「社民党を切るとはけしからん」とバッシングを煽ってくれたおかげで、私が勘違いする前に鳩山が降りてくれましたけどね。

でも、今回は予言しても当たりそうな気がする。
小沢が勝って、民主党は崩壊する。けどその民主党崩壊のとき小沢は生き残る

どぉ?
これくらい誰でも(民主党小沢派とその周辺を除く)思いつくか。

けがれ屋

時は、今の暦でいえば西暦30年頃。西暦などという暦が登場するよりはるか昔である。
ひとりの若いユダヤ人が、のちにパレスチナと呼ばれ地を歩いていた。「死の影の谷」での気の進まない仕事を終え、「レビ人の町」へと帰るところだった。


…こんな書き出しになるかな、と思っています。メルマガ「聖書を読んでみよう」でレビ記を扱った頃から構想しはじめた小説です。
登場したのは、ストーリーテラーとなる若手の祭司。このあと彼が出会う、「けがれ屋」の看板を掲げる男が主人公になります。

日本人が「お清め」を気にするのにも似て、けがれるということを徹底的に忌避することが聖書では求められています。もしこれを厳密に守ろうとしたら生活に支障がでるのではと思うくらいです。

そこで、律法が許す範囲内ではあるけれど人々が忌避する事柄を引き受けるというキャラクターを思い付いたわけです。
たとえば「これこれのケースでは、日が暮れるまでけがれる」といったものが多いですが、時限的とわかっててもいやなものはいやなんじゃないかなと。そこをお手伝いする、今でいう便利屋みたいな商売。

ある牧師さんに雑談ついでに相談したところ、けがれと言っても日本でいえば「葬式から帰ったら塩をふって清める」という程度のものだから、商売として成り立つかは難しいだろうけれど、そういう人物がいてイエス様と出会ったらどうなるんだろう、と面白がってくれました。
確かに、実際にはそういう職業がいたとは聞きませんから、それほど需要はなかったのでしょう。そこはフィクションと割りきって、考えてみようと思ってます。

他にも、ダビデがサウル軍の隊長になってからずっと仕えた家来の目線から何か物語がつくれないかとか、いろいろ構想だけはあるのですが、中でもけがれ屋は暖めてきたものがそろそろ熟してきた気がしています。問題は、そんな話をかけるだけ勉強できてるかどうか。

詩編46

今週の礼拝では詩編46が交読文に用いられました。
交読文ですから特に説き明かしということはなかったのですが、終戦の日も近いことだし、いろいろと考えさせられたことなど。

9節以下「主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。地の果てまで、戦いを断ち、弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。」をそのまま「日本は武力を放棄するべき」という根拠にする、というのは、無理があるでしょうね。来るべき日に、主がこの世から武力を一掃される(というか、むなしいものにするというのが実際に起こることだろうと思いますが)と読むべきなのだろうと思います。

とはいえ、私たちは「平和を求めてこれを追え」と命じられ、「なんと幸いなことか、平和を実現する者は」と励まされているわけです。しかも、来るべき日まで「戦争と、戦争の噂」はなくならないと明言されているにも関わらず。
その日まで平和は実現しないが、それでも平和のためにあれ、と。だから、平和の君が来られるまで何もしなくてよいというわけにはいかない。

その際、前掲箇所に「盾」が含まれていることに、もっと注目していいと思うのです。

たいていの国の市民は、防衛力増強を言う動機は防衛にあるでしょう。
特に日本では、軍備拡張に走り続ける中国、独裁者のもとで核武装を進める北朝鮮、日本の再軍国主義化がどうのというわりに自分達こそ徴兵制を布き竹島を武力占領し国策教科書で政府に都合のよい教育を刷り込まれている韓国といった、アブナイ国々に囲まれている現状が変わらない限り、自衛隊や日米安保を捨てろというのは「私たちに耳を貸すな」と言うのと同じでしょう。
防衛力を捨てろというならその前に「私たちは、教会にも自宅にも戸締まりということはしない。それで盗難や暴行にあったり、生命をおびやかされたりということがあっても、警察に訴えたりしない」と表明するのが先。隣人に対しては防衛するけど隣国には防衛しませんなんていうのは、二枚舌としか言いようがありません。

けれど主が成し遂げられたその日には、矛だけでなく盾も、むなしくされるというのです。

位置付けとしてはどうでも能力としては、自衛隊が軍隊であることは事実。
ただ、非武装平和をいうキリスト教徒がまず持ち出すイザヤ書「剣を打ち直して鋤に」は、「自衛隊イコール軍事力」という能力面の話。「自衛隊イコール防衛力」という位置付けの話とは平行線にしかならないでしょう。
でも詩編46は、盾=防衛力もむなしくされると歌っているわけですね。イザヤ書よりこちらのほうが、会話ができるんじゃないでしょうか。

もっともその前に、「いちばん武器を持ってるのはキリスト教徒じゃないか」と言われたらどう答えるのか。
それ以前に、政教分離をいながら、防衛という極めて政治的なテーマに聖書を振りかざして発言することをどう正当化するのか。
キリスト教徒の言う政教分離の出発点は、教会が政治を利用して他教派や国民を圧迫したり支配したりしたことへの反対にあったはずですが(特にプロテスタント、中でもバプテスト)、「キリスト教は政治に口を出すが、政治はキリスト教に口を出すな」というのが政教分離なのでしょうか。

牧師との距離

今週の日曜は日本同盟基督教団の教会で、T村伝道師から詩編32篇3-4の説き明かしに触れました。

こういう箇所を読んだり教えられたりするたびに、カトリック教会の懺悔室のようなものがプロテスタント教会にもあればいいのに、と思ってしまいます。

といっても懺悔室なんて映画で見たことしかなくて、そのイメージだけで言ってるのだけど、信頼できる第三者が壁一枚へだてて聞いてくれるという距離感が、内面をさらけ出したいようなときはちょうどいいんじゃないかと。

詩人が詩編32の3,4で歌っているような精神状態のとき、他のクリスチャンはどうしているのだろうと思うのです。
もちろん、神様と向き合って話し合えればいいわけです。仲保者なる主イェスに、御父に執りなしていただけばいいわけです。
が。
「御手が重いんだよぉ」というようなときだと、私には主の前に行くのがしんどい。
そういう時には牧師さんに祈っていただくのがよいと思うのですが、日頃親しくさせていただいている牧師さんだとかえって話しにくいというか。聖会などで初対面の牧師さんと話す時のほうがよほど話しやすい。話題にもよりますけど。

というようなことを、礼拝後に時間があったのでT村師とおしゃべり。
メッセージに対する、レスポンスと言っては大げさですが、感じたことなどをゆっくり話すのが好きです。
ただどこの教会でも牧師さんは日曜は忙しそうで、捕まえてゆっくり話すというのはなかなかできないのですけど。

ところでこれは余談ですが。
聖母マリアや聖人たちに執りなしを頼むというカトリックの考え方は、プロテスタントとして異を唱えるところですけど、でも実は現実的なのかもとも思うのです。
「どんな人でもイェスさまのところに行っていいんだ」「病人こそ医者のところに行くんだ」ってのは教会学校の頃から教えられてきましたけどね。親鸞聖人じゃないですけど煩悩具足な私には、「今はとても、神様であるイェスさまのところには行けない」という時がどうしてもある。そんなときに、人間である聖母や聖人にまずイェスさに執りなしてもらって、で、イェスさまに御父にとりなしていただくというのなら、とても近づきやすいだろうなと思うのです。カトリックのイメージだけで言ってますけど。だてに千年以上も続いてないなというか。

靖国神社の みたま祭り

先週、靖国神社の例祭「みたま祭り」を見に行ってきました。

奉納された提灯など独特のものはありましたが、いかにも右な団体も、ハンドマイクで訴える左な団体や教会関係者らしき団体もなく、そういう意味では予想に反して普通でした。
騒がしいのは8月15日だけなのでしょうか。

著名人などから奉納された行灯(?)が飾られていましたが、平和を祈念するものなど、政治的意図のないものばかり。
唯一、小林よしのり氏の作品は、巨大蚊取り線香の煙りで爆撃機などが蚊のように落ちてくるのを子供たちが喜んでいるというイラストでしたが、それが逆に浮いて感じるほどでした(小林作品も戦争そのものの風刺と取れれるから好戦的と即断はできませんでしたが)

お宗旨が違うので参拝はしないのですけど、社頭掲示は必ず見ます。戦死者の手紙や遺書、家族から戦地の兵への手紙などが掲示板にかかげられるものですが、この日はレイテで戦死された陸軍准尉から家族への手紙でした。

行くたびに、ことに社頭掲示を読むたびに、「二度と誰もこんな思いをしちゃいけない」「二度と誰も、こんな思いで家族を送り出したりしちゃいけない」と思わされます。
私の周囲のクリスチャンには「反戦だから反ヤスクニ」という人が少なくないのですけど、実際に行ってみると、逆に反戦教育に有益なんじゃないかと私には感じられるところです。

「戦死の美化は、次の戦争の準備だ」という意見があることは知っていますし、もしかすると実際にそのように企図する人たちもいるかもしれません。でも「戦死の美化」と「戦死者の顕彰」はまた別のはなしだと思うのです。戦死者を顕彰することが戦死の美化にならないようにするのが反戦ではないかと。

この日は、つのだ☆ひろ氏のジャズバンドが奉納コンサートがあって、無料で楽しめたのはラッキーでした。
ところで、これはクリスチャンである私には仮定の話になりますが。もし靖国の英霊がこの奉納を聞いていたら、どう思ったでしょうか。
「敵国語で敵性歌謡など!それより、米軍に倒された自分や戦友の報復を」と?
それとも、平和な時代になったもんだと喜んだ?
仮定のことで察しようもありませんけど、後者ではという気がします。

もとより、異教である神社に来ると、キリストによる救いの福音をもっと証しなければという気にはなります。
けれど、それよりも。
たとえば東京をはじめ日本全土で非戦闘員の大量虐殺をおこなった爆撃隊も、原爆投下も、聖書に誓って就任した指導者の命により、しかも従軍牧師の祝福を受けて出撃し実行したのだと思うと、「私たちキリスト教徒」というためにはまだ総括されていないことが大きすぎると思うのです。
いったい、「私たちキリスト教徒」に反ヤスクニを言う資格があるのか、と。
「日本人である以前にキリスト者」という言い方を好む方がいらっしゃるわりに、「私たち日本人」としての反省はあっても「私たちキリスト者」の反省はほとんど聞かないような気がします。

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