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「キリスト者平和ネット」の人たちの考え方

すでに先月のことですが、「内閣府にGO!」と大きく書かれたチラシをさる筋からいただきました。
ビラ
このチラシ、文中のことばから察するに「宗教者ネット・キリスト者平和ネット」によるもののようですが。

「ソマリアに海賊が多いから、自衛隊でとりしまる」という論理はずいぶんと飛躍があるように思う、と。それはそうでしょう。これでは「風が吹けば、桶屋がもうかる」というのと同じ。わざと途中を全部すっとばしているのだもの。

酔っ払い運転に追突された車が川に落ち子供を含む死者が出たことが、危険運転致死傷罪という法律ができる契機のひとつになりましたが、これを「子供がおぼれたから、道交法厳罰化」と言えば「この論理には、ずいぶんと飛躍があるように思え」ることでしょう。

「ウソではないけれど、情報を取捨選択することで、自説に都合よく表現する」というのは、朝日新聞だとか、最近ではNHKなどがよく(しかも露骨に使)う手法。こういうのは、一つ怪しいところに気づいたらほかにも何かあると注意したほうがいいものです。この短い文章の中にも多くの箇所でこうした、よく言えばテクニック、ようするにカラクリが駆使されています。

まず、さりげなく憲法を拡大解釈しています。
現行の日本国憲法第九条には「国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と書かれています。「紛争」ではなく「国際紛争」を解決するための武力を放棄するとあるのです。
「紛争解決」も「国際紛争解決」も似たようなものじゃないか、と思われるかもしれませんが、似ているということは同じではないということです。念のため辞書で確認してみましょう。
紛争:事がもつれて争いになること。個人や集団の間で、対立する利益や価値をめぐって起きる行動や緊張状態をいう。もめごと。
国際紛争:国と国との間に起こる紛争。広くは戦争も含めるが、普通、戦争にはいたらない程度のものをいう。

国際紛争とは、紛争の中でも国と国との間に起るものだけを指していう言葉です。日本国憲法が規定しているのはこの、国と国との間に起る紛争だけなのです。

私見、というか個人的な想像になりますけれど、憲法を起草した人たちはおそらく(「国際」かどうかということを超えて)「軍事力をもちいて争いごとを解決しようとする発想を放棄すると」いいたかったのだろうと思います。というか、思いたい。
でも憲法条文は現実として「国際紛争」のための武力しか禁じていません。それを「(すべての)紛争」に適用しようとすることは憲法の拡大解釈ですし、こうした「社会派」と呼ばれる人たち自身も憲法や法律の拡大解釈には反対してきています。(実際には「社会派」の人たちも拡大解釈するのが大好きで、たとえば靖国神社に関して憲法89条を拡大解釈したりします。結局「私たちは拡大解釈するが、私たちと主張が違う人たちには拡大解釈はさせない」あるいは「私たちの主張に都合のよい拡大解釈はゆるされるが、私たちの主張にあわない拡大解釈はゆるさない」という考えの人たちなのでしょう。)

海賊という「犯罪」を「紛争」であると主張するカラクリも隠されています。
紛争とは先ほど辞書から引用したとおりの意味ですが、いったい、非武装の商船をマシンガンやミサイルで襲う海賊行為のどこが「対立する利益や価値をめぐって起きる行動や緊張状態」なのでしょうか。海賊は単なる犯罪、しかも強力な武器を手に殺人も辞さない者たちによる犯罪です。
海賊行為をはのさばらせてでも自衛隊派兵を中止させようという意図も隠されています。
この人たちは「ソマリアに海賊が多いからといって、自衛隊を海外派兵して取り締まるのはけしからん」とは言いますが、「自衛隊を送るのではなく、これこれの方法で海賊に対処するべきだ」ということは一切言いません。つまり「ソマリアに海賊が多くたっていいじゃないか、とにかく自衛隊が行くのがいけないんだ」「海賊が船を襲おうと、それで乗組員がどれだけ危険にあおうが怪我しようが死のうが、放っておくべきだと」と言っているわけです。
さきごろ帰国した第一次派遣隊は、日本関係船舶を計41回121隻、護衛したと報道さましたが、宗教者ネット・キリスト者平和ネットは「自衛艦が護衛した121隻は海賊に襲われるままにしておくべきだった。どれだけの乗組員がいたか知らないが、全員、海賊に殺されるなり人質にされるなりすればよかったのだ」と主張しているのです。

「宗教者平和ネット」というのがどういう信仰を持つ人たちかわかりませんが、「キリスト者平和ネット」と名乗るにしては妙な言葉遣いもしています。
「祈りの要請行動」「祈りは非暴力手段による平和づくりの源」と言っていますが、タイムテーブルを見てみると。「祈り」はつけたしじゃん、とまでは言いませんが、「祈り以外の部分」に強く比重があるように感じてしまいます。時間配分だけをみても、「要請行動ののち、シメにお祈りしましょう」というくらいにしか思えないのです。やっていることは単に「要請行動」であって、形容詞として「祈り」とつけているだけに感じてしまうのですが。(要請行動が悪いと言っているのではなく、要請行動を「祈りの」と形容する意図を怪しんでいるのです)
それとも「祈りの要請行動」というのは「祈りとしての要請行動」、「要請行動という祈り」ということなのでしょうか。だとすれば文章としては理解できますが、「祈りとしての・・・」「・・・という祈り」といったやり方はいくらでも応用がきく危険なものです。大戦中、米軍兵士の多くは従軍牧師の祝福を受けて空襲や原爆投下に出撃していったはずですし、それらは今も米国人クリスチャンの多くにとって「戦争を終わらせるための正しいアクション」なのですから、彼らにとっては「平和の祈りとしての原爆投下」「市街地空襲という祈り」なのです。

「首相官邸前での祈り」というのも、いわゆる「社会派」の牧師やクリスチャンには、聖書の特定の箇所をあきらかに無視していると感じさせられることが多いのですが、マタイ6章5,6をどのように解釈しておられるのかたずねてみたいという気がします。
[偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。][祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。]
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コメント

主の御名を賛美致します。

詳細で面白い記事、いつも楽しく拝読しております。プロテスタントの中でも、社会派が多いと言われている、○本基督教団(伏せ字の意味ゼロ)の信徒です。

うちの牧師が話してくれた、笑えない笑い話ですが、ある社会派の牧師が、日曜に市民団体のデモに参加したんだそうです。じゃあ礼拝はどうしたのかと言えば、なんと説教を録音してそれを置いてきたんだとか。

某巨大掲示板では、教団に対して「社会活動にばかりかまけて、肝心の聖書と礼拝をなおざりにしているエセクリスチャン」などという、痛烈な批判がありましたが、全く否定できないのが悲しいところです(汗)。

社会活動もよいですが(救世軍の活動なんて、凄いと思いますし)、あくまで礼拝、そして福音伝道がメインであるべきだと考えており、一部の社会派の活動には、本当に「?」と思ってしまいますね。

首相官邸前での祈りなんて、一キリスト者として「恥ずかしいからやめてくれ」って感じです。何か、ファリサイ人っぽい雰囲気を感じてしまうのは私だけでしょうか……。

歯に衣着せない大胆なご意見、今後とも楽しみにしていますね。

栄光が世々主にありますように。
コメントありがとうございます
礼拝説教を録音で、というのはすさまじいですね。いっそのこと賛美なども含めて毎週の礼拝をネットで動画配信すれば、教会に行かなくてすむようになって信徒は楽できるかもしれない?
それは冗談としても、礼拝とは何だろうということはいずれまとめて書こうと思っていました。
礼拝を英語でServiceと言うのは、「礼拝とは神への奉仕である」ということだと思います。で、その奉仕とは何かというと、中心は神をたたえること(讃美歌や、賛美の祈り)、礼拝そのものが神にささげるものですが特に賛美をささげること、だと思うのです。たとえば使徒言行録には「神を賛美」した/していた、という表現が2章47など9回でてきますが、すべて「礼拝」と置き換えられる文脈で、賛美が礼拝だった様子がうかがえると思います。
ただ、礼拝は人から神への一方通行ではなく、神と人との応答があってその中で神の御言葉に養われ恵まれるという面もありますし、その御言葉を説き明かす説教も必要になる、という順番だと思うのですが、プロテスタントには「礼拝とは説教である」という空気があるように感じます(下手をすると賛美は礼拝の間奏曲にすぎなくなっていたり、聖歌隊の発表会になってしまったり)。だとしたら、録音でもなんでも説教が会衆に届けばよいということになりますよね。

社会活動は、仕える者としてのキリスト者にとって大切な行いであることは確かで、だからお話にあるような極端な牧師を誰も止められないのでしょう。そしてそれが仮にキリスト教界の少数派だとしても、そういうのは目立つし、報道では「キリスト教も」というふうにくくられてしまうという。

ところでファリサイ人というのは、現代でも教条主義的とか形式主義的という意味で使われますが、実際には彼らの神に対する熱心さは私たちクリスチャンのような生ぬるさとは比べられないものでしたし、「律法<伝統的な解釈」という傾向の中でもヨハネ7章51でのニコデモのようなファリサイ人もいたわけです。
教会学校に通っていた頃の私は「ファリサイ人はイエス様のかたき役」と思っていましたけれど、今はむしろ、ファリサイ人のように神を大切にし、ニコデモのように聖書の原則に従い、そしてべレア在住のユダヤ人たちがパウロとシラスの話を聞いて「そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた」(使徒17章11)ようにありたい、と思うようになってきました。少なくとも、礼拝をほったらかしてよそに行くようなことは、たとえ牧師のすることでもまねたくはないですよね。
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