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ファッショ化するキリスト教

当事者から聞いたのですが。
日本同盟キリスト教団に所属する、戦前から続くある教会で、教会史をまとめたそうです。すると、この教会史の戦争に関する時代の記述について、「教団有志」という人たちがこの教会に、認識について説明を求めてきたとか。

この話を聞いた瞬間に私は「近い将来、この教団では、赤い腕章をつけた『有志』があちこちの教会をまわって『自己批判せよ』というようになるんだろうな」と思いました。

その教会史の記述がのようなものかは、拝見していません。でもそれがどのようなものであれ、この『有志』のやっていることは、「内村鑑三は不敬である」とバッシングした人たち、美濃部博士の天皇機関説を「不敬である」と叩いた人たち、与謝野晶子の「ああ弟よ 君、死にたもうなかれ」をバッシングした人たち、戦艦の保有数を制限する海軍軍縮条約に調印した政府を「トースイケンカンパン、カンパン」と攻撃した人たちと、やってることはまったく同じです。テーマが違うだけ。

念のためですが内村鑑三や与謝野晶子を叩いたのは、国家権力ではなく、市民と、マスコミと、有識者とか学識経験者といった人たちです。戦艦数制限も、野党の政府攻撃をマスコミと市民が「ケシカラン」の大合唱をしたものです。天皇機関説の場合は、一度は問題なしで議論が決着したものを蒸し返したのは政治的ですが、そこからケシカランの大合唱にしていったのはやはりマスコミと市民です。整理するなら、
・自分たちが「けしからん」と思うことを言ったりやったり書いたりしてるやつらは、黙らせる。
・必要なら(というかむしろ好んで)、吊し上げ、レッテルを貼って、見せしめにする。
・そうやって「自由にものを言えない空気」をつくる。
・これらはすべて、「そうすることは議論の余地なく正義なんだ」と本気で信じる人々がおこなう。


「自由にものを言えない当時の空気」の中でも筋を通すべきだったのに、というのはキリスト教関係者の戦争責任告白によくでてくる言い回しですが、日本同盟キリスト教団では「自由にものを言えない空気」をつくるべく、「有志」がご活躍中というわけです。

わざわざ「有志」とことわっているのは、教団としての圧力ではありませんよ、ということでしょう。
ただ戦前戦中、こうして市民やマスコミ、ときには野党までが「ご活躍」していたのを、軍部はほくそえんで眺めていたわけです。国家からムラ社会にいたるまで、リーダーたちにとっては「自由にものを言えない空気」というのは便利なものであるのは確かなわけです。
日本同盟キリスト教団ではこの数年来、教団と各教会の関係について中央集権化を推進してきています。そのこと自体は、より同盟者が結束して宣教にあたれるようにという利が確かにあるものでしょうけれど、それでも教団中央にとっては「自由にものを言えない空気」を作ってくれる人たちというのはありがたいものでしょうね。

ちなみにwikiwikipediaによると、ファッショとはイタリア語で「たば」を意味し、そこからファシストは「結束した同盟者」の集まりという意味になるそうです。「日本同盟キリスト教団」という名前自体こうなることを期してのものだった、とは思いたくありませんが。

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