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ある説教者の、うつ病についての見解

少し前のことですが、ある礼拝で、某神学校を今春卒業し現在は聴講生として学びを続けているという方のメッセージを聞く機会がありました。
評価するような言い方は失礼かとも思いますが、語り方が少々ぎこちないとか、今一つ深みがないというのは今後の経験でしょうけれど、「汝の敵を愛せ」というよくもちいられる箇所のわりには「どっかで聞いたよ」ということもなく、といって奇をてらうこともなく。また勉強中とはいえ仕入れたばかりの知識を不必要にひけらかすこともなく。真摯に御言葉に取り組もうとしている人なんだなと感じさせるものではありました。

ただ、メッセージの中で、最近では日本人の10人に1人はうつ病と言われるが、それは「ああしてくれない」「こうしてくれない」という求めが満たされないからと周囲を敵にしてしまって、愛せないからではないのか、と言われたのには引っ掛かりを感じざるを得ませんでした。
確かに、うつ病を含めて「心の病」と呼ばれるものを、「汝の敵を愛せ」からアプローチするなら、そういう理解になるのかもしれまさん。でもそもそも、心の病に「汝の敵を愛せ」からアプローチする必要があるのでしょうか。

心の病というのは、世にあってはもっとも無理解によって苦しめられてしまうことのひとつです。外見的には病気であることがわかりにくいために、「甘えだ」「怠けている」といった無理解に苦しめられ、いっそう状態を悪化させられ、という悪循環に悩んでいる人たちです(雅子殿下や一時期の朝青龍が典型的な例でしょう)。私は専門家でもなんでもありませんが、こうした人たちに必要なのは理解と治療であって、少なくとも聖書を片手に「あなたがうつ病なのは、敵を愛せないからです」と追い詰めることではないだろうと思うのです。

キリスト教は弱者に寄り添う宗教でもある、とあちこちで聞いていたのですが、このメッセンジャーが学んだ神学校ではそうしたことを教えていないのかどうか。
もっともこれは、神学生だからという問題ではないかもしれません。これも実際に知っている話なのですが、ある人が教会に相談に来たとき、牧師(大ベテランです)はこともあろうに「あなたががんばらないとね」と言いました。自分ががんばらなきゃいけないくらいわかっていて、それでももうこれ以上がんばれないから相談にきたというような人に、重荷をおろさせるどころかさらに重くさせるベテラン牧師。その人は、私の知る限り二度とこの教会に来ていません(どこか別の教会で、心の病というものがちゃんとわかっている牧師に出会っていてほしいと祈るばかりです)。

肉体の病気の治療が専門的なスキルを必要とするのと同様に、心の病の治療にも専門的なスキルが必要だ、ということを理解しない教役者って構造的に少なくないのではという気もします。実際、(今はどうか知らないのですが)しばらく前に別の神学校の出身者に聞いたのですが、当時その神学校では牧師になるのにカウンセリングは必修ではなかったそうです。
「牧師は人の内面の問題をオールマイティに解決する。適切な聖句を適切に語れば、それができる。」ということになっている(牧師本人にとっても周囲にとっても)のかもしれません。

最初のメッセンジャーの話に戻りますが、少なくとも、私の近しい人でかなり長いことうつ病と戦っている人がいるのだけれど、あの人には聞かせられないと思いました。いずれどこかの教会で牧会することになる方なのでしょうけれど、その教会が心身とも健康な人だけであればいいけれどと思います。

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