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裁判は宣教のわざに入りますか?

どうも釈然としないのです。政教分離に関する訴訟に関係している、あるいは応援や賛成しているクリスチャンに質問させてください。
それらの訴訟で仮に勝訴したとして、敗訴した人たちが「参りました。キリスト教を信じます」というとは思えないのですけど、勝ったあとでどのように相手にキリストを伝える考えなのでしょうか。
敵愾心を燃やされるだけ、クリスチャンや教会やキリスト教に対する反発を強めさせるだけじゃないかという気がするのですが、裁判に勝つことが宣教にとってどのように益になるのですか?

「政教分離をさまたげるような者は、キリストの福音から遠ざかって滅ぴてしまえ」ということではないだろうと思うのですが、ではどうするのかが皆目わからないのです。
あるいは、敗訴する前提で「迫害の時代だ」と言ってキリスト教界が結束するための裁判なのでしょうか。
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コメント

何で裁判がいけないんですか?
ある音楽教師が「君が代」の伴奏を拒否したために処分を受けたことは、広く知られていることです。裁判を起こし、結果は敗訴でした。その方は「伝道してやろう!信じさせてやろう!」などと思ったわけではなく、ただ「自らの信仰」を守りたかっただけです。あなたの意見は飛躍しすぎに思えますが??人によっては「国歌」なんだからべつにそれぐらいいいじゃないか!と思うかもしれませんが、本人がそこに宗教的要素を感じたのならば、それは信教の自由が守られるべきです。その為に裁判を起こしたのではないかと思います。
裁判がいけないなんて、誰か言いましたか?
私は、裁判はダメとは一言も書いていませんよね。「裁判に勝ったあと、相手に対してどう宣教しようという考えなのですか」ということをお尋ねしているのです。
論点のすり替えをされると困ってしまいます。「何で裁判がいけないんですか」とのことですが、それには「裁判がいけないなんて、誰か言いましたか」としかいえないのですが。

もっと明確に、靖国訴訟などに限定した書き方をしないとわかっていただけなかったでしょうか。伴奏拒否の件は、私は勉強不足でよくわかりません(公立学校で音楽科の教師が思想信条の自由から伴奏を拒否することが認められるべきなら、公立学校で生物科の教師が思想信条にもとづいて進化論を教えることを拒否することも、逆にミッション系の私学でノンクリスチャンの教師が思想信条に基づいて賛美を拒否したり生徒に「内心の自由にしたがって賛美を拒否する権利がある」と教えることも認められるべきですが、現時点では私はそこまで賛成できません。かといって音楽科の教師だけ権利を認めるなら法の下の平等に反します。このあたりをどう考えたらいいのかわからないのです。)

No title
確かにあなたの文からは「裁判はダメ」という文言はありません。でも、あのような質問の仕方であると裁判をすることを否定しているようにしか思えないのですが?子どもがあんこを口元に付けながら「僕は勝手にお饅頭なんて食べてないよ!食べているところ見たの?」と言うことと同じですよ。

靖国訴訟って別にクリスチャンだけが起こしている裁判ではないように思えるのですが、原告側はみんなクリスチャンなのでしょうか?もしそうであったとしても「内閣総理大臣として」参拝することに問題があると思うのですが?一個人として参拝したという明確な意思表明はなかったはずですし、公用車を使ってるぐらいですからね。私もクリスチャンですが、もし総理大臣がクリスチャンであって、「私は内閣総理大臣としてクリスマスイブ礼拝に出席する」と言って公用車で登場したら、同じように批判すると思いますよ。

学習指導要領の問題ですが、理科と違って国歌の問題は昭和から平成に入り、「望ましい」という表現が「指導する」に変わってきました。そのことが問題であると私は感じています。以前は自由が守られたものが、今はそうではなくなってきているということです。そして、進化論とは違い、「宗教的要素」が感じられるのです。「そのような歌詞の意味ではない!」と言う人も多いと思いますが、戦時中の経緯を考えれば、宗教的要素を感じて当然であると思います。そこに宗教的要素がないというならば、何故、歌詞を変えなかったのかが私にとっては疑問です。

それからミッション系の場合は、あなたも言っているとおり「私学」でしょ?入学するのも教師として働くのもそれを知った上でであると思うのですが?

最後に、私はわりと色々なところでコメントを送信するのですが、あなたのように批判的に、そして攻撃的な返信をされるのは珍しいです(珍しいというだけでいなくはないですが・・・)。普通はあなたのような性質の文章は批判を覚悟の上でコメント可にすると思うのです。そしてだいたい建設的な意見が返ってきます。「批判されるのを耐えて、批判するのはダメなんて不公平だ!」と思うのならば、コメントは不可にしたほうがいいですよ。もちろんそんなこと規則で決まっているわけではありません。あくまでも道義的に・・・ということです。
整理を試みます
ずいぶん感情的にさせてしまっているようで申し訳ありません。こちらの言葉足らずのせいと思いますが、論点がずれているように感じるので、ひとつずつ。というのは、批判的とか攻撃的とか感じられたようですが、単に話しがかみあっていないだけだと思うからです。(ただ「建設的でない」というのは、ご容赦いただければありがたいです。というのも「靖国訴訟って、福音宣教という点では非建設的に見えるのだけど」と思ったから疑問を提示しているからです。「なるほど、建設的だったんだ」と納得できていない私が考えていることだから、建設的でないと感じられるのだと思います。)

まず、本文で私が誰かに教えてほしいと思ったことは、靖国訴訟や他の神社でもある玉串料問題などであって、君が代伴奏問題ではありません。
その靖国訴訟についてですが、これに関係しているのがクリスチャンだけだとは言っていません。クリスチャンだけではないからこそ、一番最初に「政教分離に関する訴訟に関係している、あるいは応援や賛成しているクリスチャン」に尋ねたいと限定したものです。
というのも、本文に書いたとおりあの裁判が「福音の宣教」という観点でどういう意味を持つものとなるかが疑問なのであって、他の宗教や無宗教の人にとってどうかということではないからです。
もっと言えば、私自身もキリストへの信仰を守るためには国が他の宗教を優遇するようなことになってほしくないとは思いますが、それは私の感情であって、聖書的にどうなんだろうということでもあります。いずれにせよ、あの裁判に関係している他の宗教の人や無宗教の人とは関係ないことです。

次に君が代伴奏拒否問題ですが、件の女性教師の動機は学習指導要領だったとしても、訴訟の焦点は「学習指導要領の是非」ではなく「内心の自由」ですよね。少なくとも私はそう理解していたので、だったら「内心の自由」が保証されるのは音楽教師だけではなくなるだろうからよくわからないのです、と書いたまでです。
もし「学習指導要領の是非の問題であって、坂井の認識が間違っている」とか、あるいは「分けて考えることはできないものだ」ということであれば、前のRESのカッコ内は謹んで取り下げさせていただき、勉強不足でまだよくわかりませんというだけにします。(よくわからないと書いている通り、君が代伴奏拒否問題についてはいずれ「どこがどう納得できていないか」をまとめられたら別スレとして質問を出します。もともとそのつもりだったのですが、ただこのBLOGで誰か教えてくださいと書いていることはすべて少なくとも1回以上は「牧師などに質問したけれど納得できる答えをもらえなかった」というものなので、このBLOGで質問を出すまでもなく納得できたとしたら、君が代伴奏問題については何も書かないと思います。)

あと、クリスチャン首相が礼拝に行くことも許されないという考えを出してくださったクリスチャンは初めてです。この記事で質問したかったことにやっと正面から応えてくださった人がいてうれしく思います。
というのは、機会があるたびに「首相の靖国参拝に反対」という牧師に質問してきたのですが、いつも「首相だろうとクリスチャンが教会で礼拝していけないわけがない」と言うだけだったからです。
ここで私自身の考えとしては「首相だろうとクリスチャンが教会で礼拝していけないわけがなく、だったら首相だろうと靖国神社で参拝していけないわけもなく、その上で法という『人間が決めたルール』で裁判するのではなく、聖霊に期待して宣教し、回心があるように祈るべきなんじゃ」という思いだったのですが、そうでなくて「靖国神社がだめで教会ならよい」というだけなら、キリスト教内でしか通らないんじゃないか、というのが疑問になっていたのです。本文の質問もそういう疑問からのものです。
だから「神社も教会も、どちらも許されない」ということであれば、賛成できるかはともかく納得はできます。

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