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ゴッドは神に入りますか?

WindowsのIMEの変換で「かみ」を変換すると、一文字で出てくるのは上、髪、紙、守、神というところだと思います。
この5文字、何かよりも上であるもの、というニュアンスが共通しています。
「上」はそのままですが。
「髪」は、体毛の中で一番上にあるものです。
「紙」は、記録媒体として木や竹より上質のもの。耐久性ということでは木簡や竹簡の方が現代まで残っていますが、使い勝手ということでは、軽くてかさばらない紙のほうが上等だったでしょう。
「守」をカミと読むのは、権威において上である人あるいは職分を表す塙合です。ちなみに「長官」と書いてカミと読むと、律令制四等官の最高位の官職というものを指すそうです(大辞林より)
そして最後の「神」ですが、これは古事記伝を書いた本居宣長の説明を引用しましよう。

すべて迦微(かみ)とは、古の御典どもに見えたる天地のもろもろの神たちを始めて、そを祀れる社にいます御霊をも申し、また、人はさらにも云わず、鳥獣木草のたぐい、海山など、そのほか何にまれ、尋常(よのつね)ならずすぐれたることのありて、可畏(かしこ)き物を迦徴とは云うなり。

さて人の中の神は、まずかけまくもかしこき天皇(すめらみこと)は、御世御世みな神にいますこと、申すもさらなり、そは遠つ神とも申して、凡人(ただびと)とは遥かに遠く、尊く可畏くいましますが故なり。かくて次々にも神なる人、古も今もあることなり。また天(あめ)の下に受け張りてこそあらね、一国一里一家の内につきても、ほどほどに神なる人あるぞかし

(いずれも、山本七平「昭和天皇の研究 その実像を探る」からの孫引き。漢字を一部平仮名にするなどしています)

こうして見ると、「何らかの意味で普通ではないもの」を表す日本語(和語)として「カミ」という言葉がまずあったのだろうと思えます。そこに漢字が伝来したときに、「カミ」のさまざまな面に上、髪、紙、守そして神を対応付けたのではないでしようか。
たとえば「雷=かみなり」ですが、「上の方で音がなる」という認識がまずあって「かみなり=上鳴り」という言葉が生まれ、やがて擬人化(擬神化)されて、あるいは畏怖の対象となる自然現象ということで「かみなり=神鳴り」というニュアンスになり、そして漢字が伝来したときに「雷=かみなり」という対応付けがされたのではないかと思うのです。あくまで素人の想像ですが(つまり、古典中での「カミナリ」の表記が万葉仮名などでどのように変化したか調べる、といったことはしていませんが)、このように考えるのが自然なんじゃないかと思うのです。

もともと非常に意味の広い言葉である「カミ」がまずあった。漢字が伝来して「カミ」という日本語はさまざまに分割されたけれど、それでも私たちはおおむね「上」という意味で使っています。「カミの毛」もそうですが、ほかにもたとえば川の上流を「かわカミ」と呼ぴます。徳川以前はド田舎だった関東に対して大阪方面を「カミがた(上方)」と呼びます。旅館や料亭のトップの女性あるいは主婦を「おカミさん」と呼ぴ、政治権力を「おカミ」と呼ぶのは「守」のニュアンスでしようか。

このように意味の広い言葉「カミ」の、一つのニュアンスだけを「神」という宇で表しているわけですが、漢字の伝来よりさらにのち、キリスト教が日本に伝わったとき、ラテン語のデウス(英語でいうところのゴッド、ヘブライ語ではエロヒム)を、いろいろ表現を苦労したようですが最終的には「神」と訳したわけです。これは邦訳聖書より前にできていた漢訳聖書で、エロヒムを「上帝」と訳すものと「神」と訳すものがあったところを後者を参考にしたものだそうです。
エロヒムは「尋常ではない存在」ですから「カミ」だと言えます。ただ、「カミ」には「唯一神、全知全能」といったニュアンスはありません。尋常でないものはすべからくカミなのです。

つまりキリスト教は、「カミ」という言葉を訳語としたことで、「全知全能の唯一のエロヒムであるヤハウェ」をその他の「尋常ならざるもの」と同列にしてしまったのです。尋常でない泥棒のねずみ小僧をはじめ、「経営の神様」「野球の神様」「プロレスの神様」といった「尋常ではない人間たち」と同列のところに「エロヒム」を位置させてしまった。その結果、教会ではヤハウェを指して「本当(まこと)の神様」「唯一の神様」などいちいち形容詞をつけなければらなくなっています。
一方、キリスト教の影響を受けて、日本語の「カミ」の方も意味が変わってきています。戦前の昭和12年(戦後の人間宣言のあとではありません)に、文部省は「現御神(あきつかみ)、あるいは現人神(あらひとがみ)と申し奉るのは、いわゆる絶対神とか、全知全能の神とかいうが如き意味の神とは異なり、…限りなく尊く畏(かしこ)き御方であることを示すのである」という通達を出しています(前掲書より引用)。「天皇が神だというのは、一神教のような意味での神ではなく、尊いお方という意味だ」と整理しなければならないほど、キリスト教が「カミ」という言葉の意味を変えたことによる混乱が生じていたわけです。

それまで日本に知られていなかった「全知全能の唯一神」という概念を、すでに存在する「カミ」という概念に対応づけたため、両方とも意味がおかしくなってしまったのでしよう。せめて、同じように新規の概念だった「上帝」とか「天帝」としていれば、混乱はもっと小さかったかもしれません。

結局のところ、日本語のカミは漢語の「神」とも違うし、いわんや英語のゴッドやヘブライ語のエロヒムとも違うのです。あえていえばそれらは「カミ」に含まれるとは言えますが(エロヒムが「多神教の中の-柱」という意味ではありません)。

Wikipediaに「比喩としての「神様」「神」一覧」という項目があります。そこでは、次のように説明されています。
「日本ではアニミズムに基づく「八百万の神」という考え方が浸透しており、古代に於いて災害を神格化し、祀り崇めることでそれを収めようとしたり、現代で人物や物を神格化して(半ば冗談の時にも)崇めたりすることは一般的であるが、キリスト教圏やイスラム教圏では神は絶対唯一の物であるとして、人物を神と呼ぶこと、或いは呼ばれることに嫌悪感を示す人がいることには注意が必要である。」
(wikipediaは誰でも自由に編集できますが、上記は2008年12月10日現在のものです)

この説明は、多くの日本人が同意すると思います。でも本当にこの説明の通りでしょうか。現代で、人物や物を「神格化して崇める」ということがあるでしようか。
ある社長さんが松下幸之助さんを「経営の神様」と呼んだとしても、彼は「松下幸之助さま、かたむきかけたうちの会社を救ってください」などと祈ったりはしないでしよう。「経営の神様」を「a God of management」などとは訳せないのです。

もとプロ野球選手の佐々木主浩さんは、1998年に横浜駅の地下街に「ハマの大魔神社」なる神社まで作られました。こちらは「半ば冗談」かもしれませんが、それでも数ヶ月で約1660万円の賽銭が集まったそうです。しかし、仮に野球少年がお賽銭を入れたとしても、「佐々木主浩さま、フォークボールを投げられるようにしてください」などとは祈らないでしょう。仮に祈ったとしても、それでフォークボールが投げられるようになると本気で信じるでしょうか。

総合格闘技の山本KID徳郁選手は、マスコミから「神の子」と呼ばれています。などというとクリスチャンなら眉をひそめそうですが、彼はインタビューに答えて「俺は、格闘技の神様の子供」と言ったものです。キリスト教で「神の子」と呼ばれるイエス・キリストに自分をなぞらえたわけでもなんでもなくて、自分の強さが天賦の才だという自負の表明だけです。
プロ格闘家を休業してまで北京五輪を目指したけれどかなわなかった彼は、「格闘技の神様」よりはその子供くらいを名乗るのは謙虚さかもしれません(「ミュンヘン五輪に出場した父が自分の中では神で、自分はその子供だから」とも言っているそうです。)
しかしプロアスリートというものはみんな、一般人から見たらすでに「ほどほどにカミなる人」と言っていいでしょう。

そして天皇という存在。戦前戦中に、昭和天皇が神格化されたと言われます。でもその時代にも、たとえば「天皇陛下、豊作にしてください」と祈った日本人がいたのでしょうか。前線で「天皇陛下、敵弾に当たらないようにしてください」などと祈った日本兵がいたのでしょうか。
天皇の神格化というものについても、いずれ考えてみたいと思います。
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