スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

クリスチャンの三昧発得(教育テレビ「法然を語る」より)

NHK教育の「こころの時代-宗教・人生」の枠で今年度「法然を語る」が始まっていますが、法然上人という方には前から少々興味がありました。自力で自分を救うのではなく他力に救っていただくという考え方に、キリストの福音に通じるものを感じるのです。もともとは親鸞上人に興味を持ったのですが、親鸞上人の先達の(素人としてはそう理解している)法然上人についてということでチェックしています。

BLOGに書こうと思ったのは、第二回となる5月の放送で語り手の町田宗鳳教授(広島大学大学院)が口にされた「三昧発得・さんまいほっとく」という一言が印象に残ったからです。その場ではあまり詳しい説明にはならなかったのですが。
前に「三位一体」の誤字としてよく出てくる「三昧」という言葉については調べたことがありました。梵語サマーディの音訳で、何かに対して精神的に深く没入することを意味します。よく「遊興三昧」などといった使い方もされますが、他を忘れて一心にということですから、非建設的なことに使うのはあまりふさわしくない言葉のように思います。…生活が破綻しかねないほどアソビに没入するなら、ありかもしれませんが。
で、三昧発得というのは、念仏三昧を通して浄土を見るということのようです。「ようです」というのは、三昧発得とはどういうことかを素人にもわかりやすく解説しているサイトが意外と見つからずよくわからないのです(観相とかの言葉がもうわからないもので)。それで今、法然上人に関する本を図書館で借りてきて読み始めているのですが、とにかく法然上人は念仏三昧を通して、深い深い宗教体験をなさったということですね。

宗教にはいろいろな要素がありますが、何より強烈なのは教義より戒律より理論より体験でしょう。それが逆に判断を誤らせてカルト宗教にハマることもあるほど、目で見たもの、体で感じたものは説得力を持ってしまう。人がなんと言おうと自分は体験してしまっているのですから。
私が三昧発得という言葉に反応したのは、キリスト教にも「神を体験する」あるいは「聖霊体験」「イエスに出会う」という言い方があるからかもと思います。「イエスに出会う」は「聖書をとおしてイエスとはどんな方かを知る」という意味でも使われますが、ダマスコ途上のサウロさながらにイエスを体験したという話しを聞くのも珍しいことではありません。
この体験という話しになると「見ないで信じる者は幸いである」というイエスの言葉を引いてくる牧師やクリスチャンもいるのですが、聖書はむしろ「見たから信じられた」という人たちの証言の方が多いのですね。
私はまだそうした「体験」はないし、体験を求めてしまうのは「しるしを求める悪い時代」のようだとも思います。
でも聖書だけが私をイエスに導く手引きなのだから、体験を求めるのではなく聖書に没入することで体験に至ることを求めるなら、それは「しるしを求める」というのとは違ってくるのではと思うのです。つまり「聖書三昧による発得」ですね。浄土宗でも、三昧を発得することがお念仏の目的なのではなく「求めずして、おのずから得られるもの」ということのようですし。
三昧という言葉を使えるほど聖書にサマーディできるかというのがまた課題ですが。法然上人にとって念仏とはなんだったのかを考えてみることは、私にとって聖書の御言葉とは何なのか(何であるべきなのか)のヒントになるのではという気がします。
スポンサーサイト

この記事のトラックバックURL

http://areopagus.blog65.fc2.com/tb.php/45-c00574f3

コメント

コメントする

管理者にだけ表示を許可する

Template Designed by DW99

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。