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靖国合祀拒否訴訟が棄却されたこと

先週のことですが、大阪地裁は、大東亜戦争中に戦死し靖国神社に合祀された9人について遺族が合祀取消しなどを求めていた裁判で、請求を棄却しました。
遺族の方には納得いかない気分もあるのでしょうけれど、地裁判決とはいえもし請求が認められていたら、信教の自由の大きな危機になるところでした。

もし請求が認められていたら、それは、誰かがある宗教に対して「それを神とするな」と求めることができるようになるということです。
靖国神社がある人から「この人を神とするな」と言われて認めなければならないのであれば、キリスト教もたとえばエホバの証人から「イエスを神とするな」と言われたら認めなければならなくなります。

もし請求が認められていたら、それは「ある宗教が何(誰)を神とするか」を司法が決めることができるようになるということです。
司法が靖国神社に対して「これこれの者を祀ってはいけない」と言えるようになるということは、司法が教会に対して「キリストを礼拝してはいけない」と言うこともできるようになるということです。

先ほど「信教の自由の大きな危機」とは書きましたが、私は礼拝を禁じられても礼拝しますし、誰かに「イエスは神ではない」と言われても、いえ私自身が否定しても、イエスはキリストであり、キリストは神です。(だから、司法でも行政でも律法でもマスコミでも世論でも、私に「キリストを礼拝するな」といっても意味を持ちません。今の私には無理かもしれませんが理想としては、投獄されてもパウロたちのように礼拝し続け、拷問されてもぺトロたちのように「御名のために恥を加えられるに足る者とされた」と喜び、よしんば殺されても「私より前の預言者たちと一緒だ。幸いなるかな」と賛美しつつ神の国に昇りたい。今は根性なしですが、「おくびょうの霊」が取り除かれ聖霊に満たされたいと思う。)
でも私は「仮に教会で礼拝できない世になっても、礼拝はどこででもできる」というだけであって、「教会で礼拝できなくなってもよい」というわけではありません。それにクリスチヤンの中には「礼拝できないような世の中になったら」ということを心配して政教分離を訴える人もいます。「司法が宗教に介入できる」という判断が出されなくてよかったと思います。

それに、この裁判の判決が違っていたら、多くの教会が訴えられるところでした。請求は「意思に反して無断で合祀された」ということを問題としていたとのことですから。
故人本人がキリスト教徒でなくても「教会のメンバーの家族だから」ということで葬儀を受け入れる教会は少なくないです。そういう教会にとっては、請求が認められていたら「遺族の中に一人でも『意思に反して勝手にキリスト教の天国にいることにされた』と訴える人がいたら」と心配しなければならなくなるところでした。
(教会員の家族であっても、本人がキリスト教徒でなければ葬儀をしない教会もあります。別の難しさがあるかとも思いますが、「信じれば救われる」と教えながら信じなかった人の葬儀をするよりは筋が通っていると思います。)

逆に、故人本人がキリスト教徒であっても、遺族の意向で仏式で葬儀が行われるということは、日本ではよくあることです。葬式をどのようにやるかは、故人ではなく喪主が決めることですから。
となると、「意思に反して神社に祀られた人」と「意思に反して成仏させられた人」とを差別しないためには、「家は仏教で、自分だけがクリスチャン」という教会員が仏式で葬儀されるたびに訴えなきゃならなくなってしまいます(遺族でもない教会が原告になりえるのかわかりませんが)。

遺族にとっては「意思に反して勝手に祀られている」という状態は感情を害するところだろうなとは思いますが、私は死後観が違うのでなんともいえないのです。というのも、私はキリスト教徒で「生きている人間が故人をどのように扱おうと、肝心なのは(故人)本人の信仰」という宗教なので。
生前にすでにクリスチャンにしていただいた私は、死後にたとえ靖国神社に祀られるようなことがあったとしても(ないでしょうけれど)、あるいは大事故にでも巻き込まれて合同慰霊祭されたり慰霊碑を建てられたり高僧が成仏を祈願(というのでしょうか)してくれたとしても、あるいは無宗教式の葬儀埋葬をされたって、私は死後にはキリストの御国に移されているのです。家族には、もし私の死後にそういうことがあったとしたら「そこには信生はいないのに、『的外れ』なことを」と思えばいいと言っておこう。

ところで、法学には素人の私が考えることですが、たぶん唯一、靖国神社から特定の祭神を除かせる方法があります。靖国神社を宗教ではないとした上で国有化し、靖国神社のことはすべて国会で決定するように法律で定めるのです。
そうすれば国が靖国神社に何をしても、宗教でないとした以上は国の宗教に対する介入ではない。国民が望めば、国民を代表する国会で、霊璽簿から特定の名前を削除することを決めることもできるでしょう。霊璽簿から名前を削るだけで「英霊でなくなる」のかはわかりませんが、その点も法律上また手続き上「霊璽簿に名前があるのが靖国神社の祭神である」と定義すればOK。

靖国神社自身も、靖国神社の国家護持を求める人も、こんなやり方には抵抗するでしょうけど。
靖国神社に反対する人も、靖国神社の国営に賛成するとは思えないのですけどね。「靖国は宗教にあらず」と言った時点で反発するでしょ?でも、靖国神社が「宗教であるまま」でそれに対して「ああしろこうしろ」と求めるということは、自身が奉じる宗教に対して同じことを求められてもよいということです。
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