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「三昧一体」って、どう読んだらいいんだか

「誤字等の館・キリスト教編」の第三弾は、キリスト教用語でありながらすでにキリスト教を離れて広く使われるようになっている「三位一体」という言葉について。
なお、これは本家「誤字等(ゴジラ)の館」を参考にさせていただている(直接的にいえばパクッている)ものです。ここに書くことは本家には何の責任もありません。

さて、今回もgoogleで調べてみましたが。

"三位一体" 2,320,000件
"三味一体" 6,769件
"三昧一体" 195件
"三身一体" 5,790件
"三見一体" 129件

中には「三位一体」を意議的にもじっていると思われるものもあります。特に料理関係のサイトで「三味一体」としているのは、たぶんですが、わざとひねったものでしょう。
しかし、料理等とは関係ないサイトで「三味一体」というのはよくわかりません。
特に、"三味一体"で検索して最初にヒットするのは年金保険の商品名。商品情報に「三味一体の"三味"とは」と説明がありますが、なるほど三つの味があるんだなとは思えても、「一体」の部分がわかりません。勘違いで商品名をつけたとも思えませんが、洒落たつもりならセンスを疑います。

誤字はミスもあるでしょうが、「さんみいったい」を変換しても「さんみ」でも、少なくともIMEでは「三見」は出ても「三味」は出てこないと思います。ということは、「さんみいったい」を「三つのことなるものが、一体であるかのように」という意味だと思い込んで(そして思い込んでしまった以上は辞書を調べようとも思わないで)、。結果、「み」が「位」とは想像もできず、でも「三見」はちがうよなと思って、「味」にしてしまう、というところでしょうか。

ところが、キリスト教徒にとっては迷惑なことに、たとえば大字林では次のように説明されているのです。
(1)〔doctrine of Trinity〕キリスト教の根本教義の一つで、三位はすべて本質(ウーシア)において同一であり、唯一神はこの三つをもつ実体であるという考え方。三位一体論。三一論。
(2)三つのものが、一つの物の三つの側面であること。また、三者が心を合わせること。 「親と学校と地域が―となって子供を守る」

なるほど、この(2)の説明の用例からは「三者が一つになって」という意味で使える言葉となります。でもそれでは、「なぜ位という字なのか」がわからないでしょう。
この説明の(2)の前半部分「三つのものが、一つの物の三つの側面であること」というのは、実体は一つということで(1)と同じことを言っているし、「また、」以下では、実体は三つと言っているのですからまったく別のことを言っているので、「また、」以下は(3)としたほうがいいでしょう。
(もしかすると「実体において同一である三つのもの」が心を合わせるということを言いたかったのかもしれませんが、だとすると用例が用例になっていないし。)

いっそのこと、「三つの実体が、一つの実体であるかのように」という意味で「三味一体」か「三身一体」という言葉を作るのがいいかもしれません。

まあ、キリスト教の方でも、普通の名詞だった「神」という日本語の意味を変更してしまいましたから、キリスト教用語の「三位一体」の意味を日本人が変更してもお互い様なところがあります。
だとしても、間違いをさらしているような誤字はどうかと思います。「三昧一体」なんていうのは、「三味一体」が正しいと勘違いした上で、ひねったつもりになって得意がっているとしか思えないのですが。

さて、今回までの3回は、実は前フリです。           ‘
これまでは「キリスト教用語についての、キリスト教界外での誤字誤用」を見てきましたが、次回からは「キリスト教用語についての、キリスト教界内での誤字誤用」を予定しています。
日本博学倶楽部の編による「知っているようで知らない数学の雑学」によると、三昧とはサンスクリット語「サマーディ」の当て字なのだそうです。「3」とは関係ないんだね。
 サマーディとは、雑念を捨てて精神を一つの対象に集中することで、仏教で重視される修行の一つだ。一つの対象に対して心をまっすぐ平等に保つところから「等持(とうじ)」と訳されたり、ほかの対象に気をとられたり心が乱れたりしないところから「定(じょう)」とも訳される。
(中略)
 この仏教用語から転じて、一つのことに熱中したり、浸ったりすることを「~三昧」というようになったのだ。
 休日にベッドでごろごろしながら読書を楽しんだのを「読書三昧」といったり、ぜいたくのしほうだいを「ぜいたく三昧」というのは、本来の「三昧」の意味からすると、ずいぶんはずれた使い方といえそうだ。
(同書p194)
この本、ちょっとその解釈説明は違うんじゃないかというところも項目によってはあるので、上記引用がどれくらい正確化はわからないのだけど、とりあえず「三昧一体」はまるきり意味が通じなさそうだとはいえますね。

熱中する、浸るということこなら、私は「聖書三昧」「福音三昧」といきたいところです。
でも「修行の一つ」ということだとこれは自力救済。キリスト教は他力救済ということでは親鸞の考え方に近いから(その他力か「阿弥陀様の本願」か「キリストの受難」かというのが大きな、そして決定的な違いだけど)、やっぱりキリスト教に関連して「三昧」という言葉を使うのはおかしいのかも。
まあ「三位一体」と間違えて「三昧一体」と書く人は、「三位一体」がキリスト教用語だということさえ知らないのだろうな。(という私も三昧が仏教用語だという認識はなかったからエラソーなことは言えない。)
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