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礼拝音楽についてのちょっと悶々とした何か

浮気性というつもりもないのですが結果的に、あちこちの教会にやっかいになっています。

そうした中のある教会では、礼拝の前奏の時に「前奏のうちに礼拝へのそなえを」というアナウンスがあります。
礼拝へのそなえということは、その時点ではまだ礼拝ではないということになりそうですが、その教会ではこのアナウンスと前奏は礼拝開始の定刻後にあるのです。
考えてみると何かヘンなような、でも目くじら立てて是正を求めるほどでもないような。

ある教会では、司会者にもよりますが、特に説教前の賛美の時に「神様に心を向けましょう/向けるために」ということが言われます。
ということは、その時点では向いてないから(少なくとも十分には)ということになると思うのですが、だとするとその状態で歌うのは賛美していることになるのでしょうか。
プログラムに賛美と書いてあるタイミングで、賛美歌集に載っている歌を歌えば、神様に心が(まだ十分には)向いていなくても賛美になるのかな、とも思うのですが、でも目くじら立てて是正を求めることでもないような。

ある教会のCSの礼拝では、子供たちにとってはじめてという曲で賛美することがあります。で、司会者(大人)にもよりますが、礼拝中に「一回、練習で歌ってみましょう」ということになる時があります。
礼拝って、最初から最後まで主に捧げられているいわば本番なのでは?という気がするのですが、でも目くじら立てて是正を求めるほどでもないような。

それをいったら「神を賛美する歌」以外の歌も、一般的な賛美歌集には多いわけで。
感謝の歌や祈り求める歌は神に向かって歌うものだから、賛美はしていなくても礼拝で用いていいのかも。
でも証や伝道の歌になると、これはもう神に向かってではなく人に向かって歌っているんじゃないだろうかとか。

たとえば私が育ったCSでずっと礼拝の最後に歌っていた「世をこぞりて」は、これを賛美として神様にささげるというのは考えてみるとおかしいような。
神様にむかって「ほめたたえよ、みさかえつきせぬ天つ神を」というのはつまり、「神様、自画自賛してください」ということになってしまうんじゃ?
(いや「世をこぞりて」と人々に向かって言っているのだ、とも思うのですが、「礼拝の中で」「賛美として」だと逆に人々を神格化しているような??)

考えるほどわからなくなってしまうのです。
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