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本「自転車依存症」

白鳥和也 著
平凡社 刊
2006年11月15日 初版
ISBN4-582-83344-6

図書館でタイトルに釣られて借りた一冊。
著者は「こよなく愛する自転車の旅と、もうひとつのテーマである文学をクロスオーバーさせ、走って、撮って、書く活動を続けている」のだそうです。

正直、この本を読むのは早すぎたかもしれない。
もっと自転車マニアな人だったら、もっと言葉を楽しめるのかも。
専門用語とか、わけわからないし。
でも面白かったので、以下、印象に残ったところを。
当然仮説ではあるが、自転車というものは、そもそもその人の持っている特性を、さらに増幅し、拡張し、強調するのではないか。この仮説が正しければ、もともと、ある傾向の強い人々が、スポーツサイクルに乗ると、ますますその傾向が増強されるということになる。(p59)

これは否定できないな。著者は「出力過剰症候群」と名付けてますが、これ私にも当てはまるかも。
基本、おしゃべりなのだけど、それは会話を楽しみたいというよりも「一方的に話したい」に近いし。それはWEBにおける私にも現れてると思う。とにかく出力(アウトプット)したくてしょうがない。


本書の後半は、自転車に限らず「のめり込むということ」あるいは「のめり込んだ状態」についての、観察というか考察というか。
車、カメラ、そして鉄道と、自転車旅とつながりながらもそれぞれがディープな世界について、おもしろく書かれています。だから、「何が好きかと言われたら、とりあえず自転車と答える」という程度でしかない私でも楽しめた一冊かも。何かの趣味を持っている人なら、きっと楽しめる本。

数ある鉄道趣味(乗り鉄とか、撮り鉄とか)に加えて、著者は銀鉄つまり「銀輪+鉄道」という提案しています。輪行と鉄道という相性もありますが。
鉄道に乗ること自体はまことに愉しく、車窓からの風景は何時間見続けても飽きないが、実際に乗車していると、素晴らしい風景の中を進む列車自体は見ることができないというジレンマが生じる。そういうわけで、前述したように私のような銀鉄には、線路に沿う道をひとつの目安として走行コースをとる場合も多い。これすなわち「添い鉄」というべきか。(p227)

この問題は私も日ごろ感じていたもので、できることなら最後尾近くの車両に乗り、カーブで一刹那だけ見ることができる「先頭車両が風景の中を走る風景」を楽しもうとしたりもします。
そして言われてみれば、私も居住地から実家へと内房を南下するとき、国道を走ったほうがアップダウンもなく楽なはずなのに、わざわざ内房線に沿った旧道を走ってるなと(アップダウンがなさすぎるのもつまらないしね。)。レバーひとつでタイヤがはずせるような自転車じゃないので輪行したことがない、だから銀鉄を名乗るのはピントはずれかもだけど、添い鉄は名乗っていいかも。

興味深かったのは、「サイクリスト」と、「健康やエコのために自転車に乗る人」との違いについてでした。
どうも、われわれサイクリストには、自分はけっこうマイナーな趣味や道楽である自転車に入れ込んでいる少々変わった人間だという意識があるのではないか。いや、最近の、環境のためとか、効率的な都市交通とか、中高年にもよい有酸素運動とか、そういう理屈がきちんとついたところで始めた人たちは違うのかもしれないが。(中略)サイクリストたちが仲間だと認めるのは、本当に好きで自転車に乗るやつだけである。自転車に乗らなければならない必然性はないのに、そこに自転車があり、道があり、上り坂があるから、ただそれだけで自転車に乗る、そういう阿呆だけである。(p247-248)

これは、よくわかるなぁ。私なんて「自転車が趣味でござい」なんて恥ずかしくて言えないくらい、ごくたま~にしか遠出はしない。しかもいったん遠出すると、高カロリーの飲食物を摂取し続けながら走ったりするから、たぶんダイエット効果は期待できない。排ガスを吸い続けて健康に悪い。そもそも車の免許ないのでエコが目的ではない。ただ、気持ちいいから自転車に乗る。絶対に押して歩いたほうが早いような坂をぜぇぜぇ言いながら上るのも気持ちいい。体力がほぼ尽きてフラフラしながら惰性でペダルを踏むのも気持ちいい。阿呆だなぁ。
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