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詩編46

今週の礼拝では詩編46が交読文に用いられました。
交読文ですから特に説き明かしということはなかったのですが、終戦の日も近いことだし、いろいろと考えさせられたことなど。

9節以下「主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。地の果てまで、戦いを断ち、弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。」をそのまま「日本は武力を放棄するべき」という根拠にする、というのは、無理があるでしょうね。来るべき日に、主がこの世から武力を一掃される(というか、むなしいものにするというのが実際に起こることだろうと思いますが)と読むべきなのだろうと思います。

とはいえ、私たちは「平和を求めてこれを追え」と命じられ、「なんと幸いなことか、平和を実現する者は」と励まされているわけです。しかも、来るべき日まで「戦争と、戦争の噂」はなくならないと明言されているにも関わらず。
その日まで平和は実現しないが、それでも平和のためにあれ、と。だから、平和の君が来られるまで何もしなくてよいというわけにはいかない。

その際、前掲箇所に「盾」が含まれていることに、もっと注目していいと思うのです。

たいていの国の市民は、防衛力増強を言う動機は防衛にあるでしょう。
特に日本では、軍備拡張に走り続ける中国、独裁者のもとで核武装を進める北朝鮮、日本の再軍国主義化がどうのというわりに自分達こそ徴兵制を布き竹島を武力占領し国策教科書で政府に都合のよい教育を刷り込まれている韓国といった、アブナイ国々に囲まれている現状が変わらない限り、自衛隊や日米安保を捨てろというのは「私たちに耳を貸すな」と言うのと同じでしょう。
防衛力を捨てろというならその前に「私たちは、教会にも自宅にも戸締まりということはしない。それで盗難や暴行にあったり、生命をおびやかされたりということがあっても、警察に訴えたりしない」と表明するのが先。隣人に対しては防衛するけど隣国には防衛しませんなんていうのは、二枚舌としか言いようがありません。

けれど主が成し遂げられたその日には、矛だけでなく盾も、むなしくされるというのです。

位置付けとしてはどうでも能力としては、自衛隊が軍隊であることは事実。
ただ、非武装平和をいうキリスト教徒がまず持ち出すイザヤ書「剣を打ち直して鋤に」は、「自衛隊イコール軍事力」という能力面の話。「自衛隊イコール防衛力」という位置付けの話とは平行線にしかならないでしょう。
でも詩編46は、盾=防衛力もむなしくされると歌っているわけですね。イザヤ書よりこちらのほうが、会話ができるんじゃないでしょうか。

もっともその前に、「いちばん武器を持ってるのはキリスト教徒じゃないか」と言われたらどう答えるのか。
それ以前に、政教分離をいながら、防衛という極めて政治的なテーマに聖書を振りかざして発言することをどう正当化するのか。
キリスト教徒の言う政教分離の出発点は、教会が政治を利用して他教派や国民を圧迫したり支配したりしたことへの反対にあったはずですが(特にプロテスタント、中でもバプテスト)、「キリスト教は政治に口を出すが、政治はキリスト教に口を出すな」というのが政教分離なのでしょうか。
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