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牧師との距離

今週の日曜は日本同盟基督教団の教会で、T村伝道師から詩編32篇3-4の説き明かしに触れました。

こういう箇所を読んだり教えられたりするたびに、カトリック教会の懺悔室のようなものがプロテスタント教会にもあればいいのに、と思ってしまいます。

といっても懺悔室なんて映画で見たことしかなくて、そのイメージだけで言ってるのだけど、信頼できる第三者が壁一枚へだてて聞いてくれるという距離感が、内面をさらけ出したいようなときはちょうどいいんじゃないかと。

詩人が詩編32の3,4で歌っているような精神状態のとき、他のクリスチャンはどうしているのだろうと思うのです。
もちろん、神様と向き合って話し合えればいいわけです。仲保者なる主イェスに、御父に執りなしていただけばいいわけです。
が。
「御手が重いんだよぉ」というようなときだと、私には主の前に行くのがしんどい。
そういう時には牧師さんに祈っていただくのがよいと思うのですが、日頃親しくさせていただいている牧師さんだとかえって話しにくいというか。聖会などで初対面の牧師さんと話す時のほうがよほど話しやすい。話題にもよりますけど。

というようなことを、礼拝後に時間があったのでT村師とおしゃべり。
メッセージに対する、レスポンスと言っては大げさですが、感じたことなどをゆっくり話すのが好きです。
ただどこの教会でも牧師さんは日曜は忙しそうで、捕まえてゆっくり話すというのはなかなかできないのですけど。

ところでこれは余談ですが。
聖母マリアや聖人たちに執りなしを頼むというカトリックの考え方は、プロテスタントとして異を唱えるところですけど、でも実は現実的なのかもとも思うのです。
「どんな人でもイェスさまのところに行っていいんだ」「病人こそ医者のところに行くんだ」ってのは教会学校の頃から教えられてきましたけどね。親鸞聖人じゃないですけど煩悩具足な私には、「今はとても、神様であるイェスさまのところには行けない」という時がどうしてもある。そんなときに、人間である聖母や聖人にまずイェスさに執りなしてもらって、で、イェスさまに御父にとりなしていただくというのなら、とても近づきやすいだろうなと思うのです。カトリックのイメージだけで言ってますけど。だてに千年以上も続いてないなというか。
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