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列王記一21章

先のエントリーで書いた、ナザレンの目黒教会の祈祷会、聖書箇所は列王記一の21章でした。以下は牧師の講解に自分の感想を交えたものです。

アハブ王ってのはどこか、洗礼者ヨハネの話を迷いながらも喜んで聞いていた領主ヘロデを思い出させるものがあるように感じました。
領主ヘロデやサウル王やカインを、私は「もう少しだったのに、惜しかった人たち」と呼んでいるのですが、アハブ王もそうかも知れない。
牧師が指摘したことですが、ナホドが律法を盾に畑を譲らないと、王として強権を発動しようともせずすねるだけ。エリヤから裁きを告げられると必死で悔い改める。
ヤハウェからまったく離れてしまうことは考えてなかったのかも。ただ政治家としては、エルサレムをかかえる南王国との対抗や、フェニキヤ系先進国との外交を考えなくてはならず、そのために少しずつ「的外れ」を重ねて行ってしまった。

そんな印象があるから余計に、アハブをそそのかした「悪女イゼベル」に目がいくのだけど、彼女は律法には(悪用できるほど)通じていたけど、それは法としてであって、啓示された言葉としてではなかった。
つまり彼女に「神の言葉なのだから」というのは、NCCなどが声明文に聖句を引用したがるのと同じで、意味がない。聖書は、信じる者には神の力でも、啓示と知らなければ愚かなものなのだから。

むしろ、この箇所を自分にあてはめることを考えると一番気になるのは、イゼベルの指図のままにナボトを殺した市民たちではないかと思うのです。彼らイスラエル人はイゼベルと違って、律法をただ法として知っているだけでなく、神の言葉として知っていたのだから。

イゼベル(にそそのかされたアハブ)と市民の関係は、日本の(福音を知らない)指導者とクリスチャン市民の関係に、そのままあてはまるのではないでしょうか。
たとえば小泉純一郎氏が首相在任中にイスラエルの指導者(もちろんキリスト教徒ではなくユダヤ教徒)と会談したとき、パレスチナ問題に関して「目には目を」では解決しないと言いました。あれほどトンチンカンな引用はないなと思ったものですけど、そのトンチンカンさを差し引いても、聖書の民ではない小泉氏にとっては結局のところ律法は法ではありえても啓示ではなかったわけです。

脱線しました。
聖書を法としてなら知っているだけにタチが悪いイゼベル。聖書を啓示と知っていながらその文言上で問題なければ人殺しにも加担できてしまう市民たち。
戦時中、さる教会のクリスチャンたちが神社参拝を拒否したとき、もっとも激しく攻撃したのは他の教団教派のキリスト者たちだったそうですし、今でもクリスチャンを苦しめるのは他のクリスチャンである、というようなことを聞くことが私は少なくありません。

「私がそこにいたなら、預言者の血を流さなかったであろう」なんて言ってすますような者にならないために、イゼベルよりアハブよりあの市民たちこそ他山の石としなければならないのではと思いました。
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