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「信教の自由」がなくなったら、クリスチャンやめますか?

どうも釈然としないのです。
「信教の自由が大事だ」とお考えのクリスチャンに質問させてください。キリスト教の福音にとって、信教の自由は本当に必要なのですか?
信教の自由が不自由になったら、伝道が進まなくなるのですか?信仰が守れなくなるのですか?クリスチャンやめますか?イエス様が困るのですか?

信教の自由がないと伝道が進まない、ということはないでしよう。逆に、信教の自由が不自由な国のほうが教勢が伸びています。
中国は宗教を許容しない共産党の独裁国家で、法輪功の件でもチベット仏教の弾圧でも、信教の自由などないことは明らかです。カトリックもプロテスタントも、国家の管理化にある教会だけが公認されている状況です。それでも人口の1割がキリストを受け入れたという報告をしばしば聞きます。10億を超える人口の1割というと、信教の自由がある日本の全人口にも匹敵するキリスト教徒が共産主義国にいるのです。まあ、1割というのは「日本のクリスチャンが1%」というのと同じくらい誇張したものではという気もしますが。
サウジアラビアでは、外国人がほとんどとはいえ数パーセントがクリスチャンだと聞きます。イラクでは、「キリスト教国アメリカ」が治安を破壊したあげくに無茶苦茶を続けているせいでクリスチャンの国外避難が増えたそうですが、フセイン政権末期の頃に万単位のクリスチャンがいたと聞いています。アフガニスタンでも、数は今も少ないものの、2000年頃にはクリスチャンは数家族だったというのに比べるなら急増といえそうです。
メディアごとに数字が違うので正確なところはよくわかりませんし、(根拠のない偏見かもですが)中国の1割というのは「信教の自由がある国ですよ」というアピールのための数字じゃないかという気がします。でもいずれも「少なくない数」だとは言えるでしょう。

信教の自由がないと信仰を守れない、ということもないですよね。
信教の自由がある日本では、前述の通りクリスチャンは1%にも満たないと言われ続けています。などというと「日本のどこに信教の自由がある」などとおっしゃる方もあるかもしれませんが少なくとも、伝道したら逮捕されたとか、聖書を持っていたら死刑になったという話しはまったく聞きません(上に書いた「信教の自由が不自由な国」では、そんなの日常茶飯です。)
信教の自由がある欧米先進国でも、教会に行かない人が急増していると聞きます。(日本でも私が子供の頃は3%と聞いていたのが1%ですが、3分の1になったとも思えないので、減少したという以上に「より実態に近い数字が報告されるようになった」ということだと思いたいです。)
欧米の「キリスト教国」は、統計上は「尋ねられればキリスト教と答える人」が多いから「キリスト教国」のままなのでしょうけど、日本人が「家は仏教ですけど」というのと似たようなものなんじゃないでしょうか。

信教の自由がなくなったらクリスチャンやめます、ということもないですよね。
私のような根性無しには、信教の自由があるほうが楽ですけど、それでも「状況によっては自分が主から離れる」とは思えません。あなたはどうですか?

日本から信教の自由がなくなったらイエス様が困る、ということもないですよね。
主は「耐え忍ぶ者は幸い」とは言われましたが「耐える必要もないのが幸い」とは言われませんでした。「迫害する者のために祈れ」とは言われましたが「迫害させるな」とは言われませんでした。
主は、ご自身の民イスラエルにさえ捨てられることを耐え忍ばれた方、しかも十字架の上で耐え忍ばれた方です。

福音に「信教の自由」は本当に必要ですか?
むしろ迫害下のほうが福音が燃えているように見えませんか?

日本国憲法だけを奉じる「日本国民」には、憲法で保障された権利を守ることは大事でしよう。でも日本国憲法に加えてさらに、というか憲法など比較にならない至上の基準として聖書を奉じる「日本人キリスト者」に、というか「キリスト者」に、信教の自由って必要なのですか?

繰り返しておきますが、私個人にとっては、信教の自由があったほうがラクですよ。
でも、法廷闘争したり、神社の前で「片手に聖書、片手に拡声器」で信教の自由を守れと叫ぶほど、大事なものですかと尋ねたいのです。
裏返していえば、相手を福音から遠ざけてまで(法廷闘争や拡声器で福音に招いているとは思えませんし)、「信教の自由」を守らなきゃならないんですかと尋ねたいのです。
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コメント

あなたは何か勘違いをしてはいないでしょうか。
信教の自由を守ろうとするのは迫害されたらクリスチャンをやめるからではありません。過去、現在においても様々な国の迫害下にあって、多くの人々がクリスチャンになったことは事実でしょう。しかし、その中でどれだけ多くの人々が傷つけられ、命を落としたと思っているのでしょうか。現在でもインドのオリッサ地方では一方的なクリスチャンの迫害が続き、多くの人々が命を落としています。彼らは特別に信教の自由を訴えたわけでもなく、ただ「クリスチャンだから」というだけで想像を絶する迫害を受けているのです。もし、それがあなたやあなたの家族に起ころうとしていることであったらどうしますか。信教の自由を守ろうとすることは、伝道の妨げにならないようにということももちろんありますが、本当に迫害が起こったら、この日本であっても賛美一つできなかったり、礼拝をささげることさえできなかったりする恐れがあるということです。現在、迫害下にあるクリスチャンが、「迫害があった方がいい!」なんて思っていると思いますか?そのような人々を前にあなたは、同じコメントを言えますか?教会は一人ひとりの信仰を守ろうとしているのです。あなたの考えだと「宣教の前進のためには迫害が起こり、人々が命を落とした方がよい」と言っているように思えます。あなたの真意がそうでなくとも、この文面では、そのように捉えられても仕方がありません。
以上のコメントは私とあなたでは考えが違う故、受け入れてもらえないかもしれません。しかしこれだけは聞いていただきたいです。プロフィールを見るとあなたは日本同盟基督教団の教会員のようですね。わたしもとある同盟の教会員です。同盟では「信教の自由を守ること」は「教会と国家委員会」の活動をみても分かるとおり明らかです。教団総会においても、その旨の声明文が採択されたはずです。つまり、信教の自由を守ろうとすることは同盟教団の教会の総意なのです。(少なくとも公では)あなたが個人で違う考えをお持ちであるのは仕方のないことかもしれませんが、それを「同盟教団に所属している教会員」として訴えることは、あなたの文章を見た人の中で、あなたの考え方が、同盟教団も同じであると思われるおそれがあります。絶対にしないで欲しいです。
コメントありがとうございます
まず、私が所属を明記しているのは、本名で書いていることと併せて、発言には責任を持っていますよという意味でしかありません。それに個人が個人的に感じている疑問を書いているだけであることがわかるようには気をつけているつもりですし、少なくとも今のところは「同盟教団は、中にはこういうのも居る」とは思われても「同盟教団は方針としてこう考えている」と思われるようなことは書いていないつもりです。(逆に「同盟教団というのは、思想統制された宗教団体ではない」という証明になっているかもしれません。そこまで意図していたわけではないですが。)

次に、「同盟教団の教会の総意」に反するようなことは言うべきではないというお考えだと拝察しますが、どこかの異端のように、疑問に思うことさえ許されないというわけではないでしょう。また、プロテスタントである同盟教団の議決や総意は、カトリックにおける教皇のエクス・カテドラ宣言とは違うでしょう。教団の声明に「もしこれらのことを疑い、否定する発言を行うものは教会の信仰から離れているとみなされる」とは付記されていなかったと思います。
それに「総意」というのは、言葉の意味としては総員の意思だとしても、言葉の使われ方としてはそうではありませんよね。「教団に属する者は、教団の総意に反することを表明してはならない」ということであるなら、「日本国民に含まれるものは、日本国民の総意に反することを表明してはならない」ということにもなりますが、天皇の地位は日本国民の総意に基づくと日本国憲法の第一条で謳いあげているにもかかわらず、反天皇の考えを表明している日本人が同盟教団の中にも少なくありません。

「私とあなたでは考えが違う故、受け入れてもらえないかもしれません。」とのことですが、本文では私は私の考えを出していません。その前に誰か教えてくれないものかと書いているだけです。考えが違うというよりも、論点が違っています。私は「信教の自由は大事ではない」と否定しているのではなく、「なぜ大事なのか教えてください」と書いているだけです。
「賛美一つできなかったり、礼拝をささげることさえできなかったり」とのことですが、賛美や礼拝は「できるか否か」ではなく「するか否か」ではないでしょうか。使徒たちは伝道を禁じられて鞭打たれたとき、それを喜びとしてさらに熱心になっています。パウロたちも、鞭打たれても投獄されても賛美も礼拝も続けました。今の私では無理ですが、理想としては、もしも口をきけない体にされても脳死の瞬間まで賛美し礼拝する者となりたい、というか、そういう者に変えていただきたいと願っています。もし私が、鞭打たれた体でも獄で賛美し礼拝する者であれば、パウロが獄吏に伝道したように証しできるようになるでしょう。
あくまでも現在の私からは理想ですが、信教の自由を求める「迫害反対」と、使徒言行録に記されているキリスト者とは、は、現時点の私の聖書理解では整合しないように思えるのです。それをどう考えたらいいのかを、聖書を信じる先輩諸兄姉にご教示いただきたいのです。
「信教の自由が大事だ」とは、クリスチャンもノンクリスチャンも言います。ただ、クリスチャンが言うなら、聖書に基づいてその大事さを教えてほしいのです。もし今の私の理解で「信教の自由を」といったら、それは「私を守れるのは神ではなく司法だ、聖書の言葉ではなく憲法の条文だ」という意味になってしまうからです。

話を進める前にことわっておきますが、本文にも書いたとおり、私は信教の自由が保障されていて迫害のないほうがうれしいです。実際に迫害の下にある人たち、ことに命を失っていっている人たちのために心が痛まないほど冷血ではありません。正直に言えば、迫害の時代なんてごめんです。特に、私には妻子がいますがもし遠藤周作の「沈黙」のように「おまえがコロばなければこいつらがどうなるか」とやられたら、それでも自分の力で信仰を守れる自信はありません。でもこうしたことは、私の感情であって、聖書の言葉ではない。
シャドラク、メシャク、アベド・ネゴは「わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。」という信頼と、「そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」という覚悟を持っていました。
鞭打たれた使徒たちは「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜」ぶことができました。
主イエス自身が、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」「義のために迫害される人々は幸いである」「(迫害された者に)天には大きな報いがある」と言われました。こうしたことをどう考えたらいいのか教えてほしいのです。

「迫害されている人をどう思うのか」「迫害があったほうがいいのか」というなら、私だって人並みの感情です。私がお尋ねしたいのは、私がどう思いどう感じるかではなく、聖書にこういう事例はありますがどう読んだらいいのですかということなのです。
No title
逆にあなたに問いたいです。私には、否定を前提とした質問としか受け取れないのですが、「私は信教の自由があった方がいいが、キリスト教の福音にとって、信教の自由は本当に必要なのですか?信教の自由が不自由になったら、伝道が進まなくなるのですか?信仰が守れなくなるのですか?クリスチャンやめますか?イエス様が困るのですか?法廷闘争したり、神社の前で「片手に聖書、片手に拡声器」で信教の自由を守れと叫ぶほど、大事なものですか?・・・という疑問を持っている」ということになるのでしょうか?これだけの質問を並べられて「これは意見ではなくて、質問だ!」というのは無理があるように思えるのですが??
おっしゃるとおりなんです
私の書いたことは「否定を前提とした質問(という意見)」だと言われますが、何事であれ肯定している場合には質問などしないものではないでしょうか。肯定しているのに質問するというのは、国会で与党議員が代表質問するときくらいなものだと思うのですが、ああいう茶番じみたものしか質問してはいけないということでしょうか。質問したら「否定するのか」で終わってしまうのですか?
「そんなに大事なのですか」という質問は、なぜそこまでして大事にしなければわからないからしているのであって、大事だと思っていればこんなことは書きません。それを「否定するのか」で片付けられるのであれば、「疑問を持つことは許さない」というのと同じです。

何度でも繰り返しますが、「私の思い」としては、信教の自由があったほうがいいと思っています。これは何度でも繰り返します。
でも聖書はそういってないんじゃなんだろうかと思うのです。
「私がどう思うか」ではなく「聖書は何と言っているか」というところから、「すでに信仰を持っている私がどう思うか」ではなく、「これから救いの福音に出会うべき人たちがどう思うか」ということを考えたときにどうなんだろうか、という疑問なのです。
「神の守り」に信頼するよりも「人の作った法」に頼っているように見える行動はどうなんだろうか、という疑問でもあります。(これも何度でも言いますが、私自身はシャデラクたちのような「たとえ神の助けがなくても」というほどの信仰は今は持っていません。エフェソ書の最後でパウロが私のために「信仰を伴う愛が、父である神と主イエス・キリストから、兄弟たちに」ととりなしてくれたことにすがるのみです。)

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