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ベネディクト16世の退位

ローマ教皇ベネディクト16世が退位されるということで。
数日前に書き始めたのだけどまとまってなくて、でも今日のうちに出してしまおうと。

日本政府やNHKなどでは「法王」としてますけど、カトリックの霊的指導者だからカトリック中央協議会の推奨する訳語で「教皇」とお呼びしますが。
その教皇ベネディクト16世台下は
「何度にもわたって神に対し良心に照らして考えた結果、高齢に達している我が身が教皇としての職務を達成することができないという確信を持った」
「素早い変化に見舞われ、信仰にとってとても大切な問題に揺れる今日の世界では、ローマ教皇には心身ともに活力が必要であるが、私にとってそうした活力がここ数か月弱ってきており、私に与えられた職務を遂行することができなくなった」
と述べられたと。

ぼく自身はプロテスタントということもあってか、人が大切にしてきたもの(人物に限らず)には敬意を払うものだと思うけどローマ教皇というその地位についてはぼくには「一人の教役者」でしかなくて。
ただ、その「一人の教役者」として見たときに、このベネディクト16世台下の退位には考えさせられるところがあったわけで。

以下、あくまでぼくの個人的な主観であって、意見には個人差がありますけど。
教役者の引き際というのは、難しいものだと思う。

ぼくの知る牧師たち(そんなに何人もは存じ上げませんけど)はみな、地上に生ある限り、神と神の教会とに仕えたいと思っておられるだろうことを、ぼくは疑わない。
その一方、ぼくの知るプロテスタントのいくつかの教団教派で共通して「牧師の引退後」は大きな課題だという事実。

この課題には「そもそも牧師に引退があるのか」ということが、牧師にも信徒にもあるだろうと思うわけで。
ひとたび「生涯を神のために」と決心した者が、しかもそれは自分一人の決心でなく神から与えられた召命だと確信した者が、引退なんてあるんですか、と。
そこに加えて、家族まるごと「この牧師先生にお世話になってる」とか、「私の葬儀はこの牧師先生に司式してほしい」という信徒が多かったりすると、仮に引退したいと思ってもなかなか引退させてもらえないかも。

一般にも「一生の仕事と決めたところで死ぬまで現役」というのは幸せでしょうし、それが牧師となると召命の世界。

ただ。

たとえば、ぼくが十数年前に初めて会った牧師は、その頃すでに高齢で、当時でさえ正直なところ説教はほとんど、いやまったく聞き取れませんでした。けどその後も長く現役でいらっしゃった。
最晩年には主任牧師は退かれたけど、それまでの間あの教会の皆さんにとって礼拝説教とはなんだったのだろうという思いを禁じ得ないわけで。
聖霊に満たされ促された素晴らしい説教だったとしても、なんて言ってるのか聞き取れない。
もしかしたら付き合いの長い教会員は聞き分けられたのかもだけど、初来者や求道者には伝わらない。
もしも、ですけどね。もしも「何やらありがたそうだけど意味はわからない」なんてお経のような受け取られかたをしたら、牧師にとっても本意じゃないだろうなぁ。それはまぁないか。

「神の賜物と招きは取り消されない」のだから、神がある人を牧師としたときに与えられている賜物は生涯なくならないはず。
そしてこの賜物は、どんだけすごいかということですよね、たとえば国外逃亡中の無力な爺さんだったモーセを召したときに神が彼に与えたものを考えたら。
ただ、その賜物を礼拝説教というところでは活かすのが難しくなったとき。そんなときの選択肢は、ことに日本では随分と限られてしまっているように思うわけで。
語るべきことは天から示されるのに発声では伝えられない、としたらたとえば文章で伝えるとか考えられそうだけど、話す賜物と書く賜物は別のようで。
以前にブログにも書いたある牧師は、説教はどこか弱々しいかただったけど時折いただくお手紙はとても力強くて、まるでパウロみたいだった。
ということは逆に「語る説教は力強いけど、文章は」という方もあるだろうと。
あるいは。ぼくが子供の頃からお世話になった牧師の召天後に説教集が出たのだけど、生前の生き生きした「神様のことを話すのが楽しくてうれしくて止まらない」という感じは文章には出てなかった。あれは編集者のチョイスの問題かも知れないけど、それ以前に説教集というのは説教者の存命中にはあまり出すものではないらしいし。そもそも日本では需要の点からも「語って伝えられないなら著作で」というのは難しいみたいだし。
そうなると、ヘンな視点にはなるけど現実の問題として牧師(とその扶養家族)の生活のためにも、ちょっとやそっとでは「教会の牧師」を引退するのは難しいのかも。そこに信徒の「この牧師先生にずっとお世話になってきた。この牧師先生が大好きだ。たとえ説教が何を言ってるかわからなくたって、この牧師先生にいてほしいんだ」が加わったりしたら、勇退は難しいかもなと。
ある程度の規模の、つまり複数の牧師を支えられる経済力のある教会なら別かもだけど。

世界何億のカトリックの教皇と、数家族で支えるような小ささも珍しくない教会の牧師を比べるのが無理あるだろうけど、それでもやっぱり考えてしまうわけで。

やっぱりまとまりませんね。ケータイで長文を推敲するのはぼくには無理。

そういや、ベネディクト16世に関連して宿題があったんだよな。
例の、東北大震災後の教皇の発言をどう思いますかってメールが何通か来てたんだ。
この話は長くなりそうなのでまた今度にするけど(と言ってるうちに早2年)、ぼくはあの時の台下の返答はとても真摯で、そして聖書的だったと思ってます。

さて、キリスト教になんの関心もない日本人もなぜか注目のコンクラーベとなるわけですが。
投票権を持つ日本国籍の枢機卿は今いないそうで。
いつの間にか濱尾枢機卿も帰天なさってたんだね。
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