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カトリックについての勝手な印象

読者の方から、キリスト教の中でもプロテスタント系である私にこんな質問をいただきました。
「プロテスタントとカトリックのエキュメニカル運動が始まり久しいですが、カトリックやカトリック者については、どうお考えでしょうか。」

親しく知っているカトリック者もいませんし、カトリックについて詳しいわけでもないので、以下は外から見た印象だけです。誤解もあるかもしれませんし、隣の芝生が青く見えているところもあるかと思います。

まず、やはり同じ聖書を手がかりに同じ主を信じる、同じ宗教なのだなと思うところのほうが多々あります。
これについてプロテスタントでは「宗教改革後にカトリックでも、プロテスタントを見習って内部改革が進んだ。だから今では違いが小さくなってきている」と理解されていることが多いようです(私自身、何人かの牧師からそのように聞きました。)

ただこれも、対抗宗教改革は宗教改革より前に始まっていたことがわかってきています。宗教改革という言葉は「カトリックを改革しようというもので、そうしたムーブメントの中に登場したルターたちもプロテスタントを旗揚げしたかったわけではないだろうと思うのです。

たとえとして適切かわかりませんが、わたしの中では「宗教改革というのは兄(カトリック)を弟(プロテスタント)がいさめた(=宗教改革)。でも弟に言われる前から兄はわかっていてなんとかしようとしていた(=対抗宗教改革)、だからもう手を携えていこうよ(=エキュメニカル)」というイメージです。

そうはいっても、プロテスタントの中にはカトリックを批判したいという部分もあります。「カトリックが間違ったときに、正しい方へ進んだのがプロテスタントなのだから、自分たちプロテスタントこそ実質的な本家」という正統派争いみたいなものを感じてしまうのですが。
で、プロテスタントのカトリック批判でもっともわかりやすいのが「マリア崇拝」への批判だと思います。
ただこれも、ラテン語や英語でどうなのかは知りませんが日本語だと実際には「マリア崇拝」ではなく「マリア崇敬」という言い方をしてますよね。
「崇敬=敬う」と「崇拝=拝む」では意味がまったく違いますし、わたしでもマリアを拝むというなら「聖書と違う」と思いますが「敬う」というなら気持ちは理解できます。
むしろ、マリアという存在は「カトリックは人間をわかってるよな」と思わされるんです。これもカトリックを外から見た私の印象なので、カトリックにおけるマリア理解(という表現が適切かわかりませんが)に合うものかはわかりませんが。
カトリックの祈祷文に「聖母マリア、すべての天使と聖人、そして兄弟の皆さん、罪深い私のために祈ってください」というものがありますね。あれを知ったときに私は、カトリックは人間というものをわかってるなと、だてに2千年も人間を扱ってないなと思いました。

あの祈祷文について、プロテスタントの牧師や神学者なら「私たちと御父との間に立たれるのが御子であって、その御子と人の間を取り持つ存在は必要ない。そもそも聖なる存在は神のみであって、聖母とか聖人というのはおかしい」と言うだろうと思いますし、私も頭ではそう考えます。
ですが「それでも、とてもキリストの前には立てない」という時もあるのが人間じゃないだろうかと思うのです。私自身、どうしても祈れない時があって、教会で「私のために祈ってください」と頼んだことがあります。だから「私たちとおなじ人間だというのはわかっているけれど、なんとなく私よりも御子との距離が近そうな気がするマリア」とか、「すでに天に召されて主のみもと近くにいる人々」に、御子との間に立ってとりなしてほしいというのは、とても自然だと思うのです。

主イェス自身、マリアは特別ではないということを言っていますし(マタイ12章後半など)、我ながら情緒的すぎて根拠薄弱なことをさっきから書いているという気もしますが。

余談ですが、情緒的ついでに。
懺悔室というのも「カトリックはわかってるな」と思わされます。これはもう映画などでの印象しかないので、現代において実際に赦しの秘蹟というのがどのように行われているのかもしらないのですが。
「信頼できない牧師には怖くてさらけだせない、だけど信頼している牧師には恥ずかしくて聞かせられない、でも誰かに告白してこんな自分のためにとりなしを祈ってほしい」ということがあるときに、壁一枚へだてたところで話を聞いてくれるという距離感って絶妙だなぁ、わかってるよなぁと。

カトリックについて私にとって衝撃的だったのは、昭和天皇が倒れられたときのことです。
恥ずかしながらプロテスタントには、普段は愛を教えながらこと皇室については呪うという牧師やクリスチャンが、少数だと思いたいですが実際に存在します。昭和天皇は東京裁判で死刑になるべきだったとまで言った牧師さえいます。
そんなときに昭和天皇が倒れられ、そしたらカトリックでは陛下の病気平癒のための祈りがささげられたと聞いて、「いったいどちらが主イェスの教えに近いか」と思わされました。

昭和天皇が崩御されたあとも、プロテスタントではあちこちから「大葬の礼ハンタイ」「新嘗祭ハンタイ」とシュプレヒコールが上がっていましたが、あとで「昭和天皇ご逝去に際する信徒宛カトリック司教団談話」というのを見たときには愕然としました。昭和天皇の神格化などがないよう注意を払うという当たり前の但し書きと、政教分離や信教の自由が守られるようにという要望を付しているものの、何よりもまず一番最初に「司教団は、神に召された天皇の永遠の安息を祈り、心から哀悼の意を表します。」と。あれには「勝てない」と思わされたものです。勝ち負けでいうのは語弊があるかもしれませんが。

プロテスタントの中にもいろいろな考え方がありますし、カトリックも全体が同じ思想ということではないでしょうけれど、おもてに出てきているところ、教会の外にいるたくさんの日本人(つまり宣教対象)に見えるところをそれぞれの代表的な姿勢とするならば、少なくともプロテスタントから日本社会への発信は「なんてすばらしい教えだ、帰依したい」と思わせるものにはなっていないように思えて仕方なく。。。

なんか段々、カトリックの印象を書くふりをしてプロテスタント批判ばかりしてる気分になってきましたが、もうひとつだけ。

人道的には、キリスト教徒がユダヤ人に対してどれほどのことをしてきてしまったかといういこと。
宗教的には、神のイスラエルへの約束はイスラエルから取り上げられて教会に与えられたなどという、反聖書的な理屈がまかりとおっていること。
この二つを悔い改めていないことはプロテスタントの大きな宿題だと思いますが、カトリックはユダヤ人(ユダヤ教)との和解をすでに課題としてとらえていて、特に先代教皇は和解のためにとても心をくだき実際に自分で動いておられた。
カトリック国フランスがヨーロッパで今もっとも反ユダヤ主義が強いことなどを考えると話が複雑になってしまいますが、とにかくカトリックは一歩を踏み出しています。
その点プロテスタントは、カトリックのような一枚岩ではないということもあり、中にはユダヤ人の救いのために熱い祈りと奉仕が続けられているグループもあるものの、宗教改革者たちの伝統を守って反ユダヤ主義にとどまっているのが多数派であるように感じています。

あと、私は「礼拝とは何なのか」ということをよく考えます。プロテスタントの礼拝というのは、口では「神にささげるもの」と言いながら、実は会衆が客になってるんじゃないかと感じることが多いからです。極端に言うと、人間(信徒)が「今日の礼拝では恵まれた」と思えたらいい日曜日なんですね。言葉は悪くなりますが、まるで消費者ではないかと感じることがあります。
個人的な感想ですが、何度か出席したカトリックのミサというのは、最初から最後までが一幕の作品であるかのように感じました。なめらかで美しくて、「いかに整えあげて御前にささげるか」ということが長い時代の間に工夫され考え抜かれているのだろうという印象を受けます。

司祭という訳語がどのようにしてできたのかは知らないのですが、礼拝は私たちが主にささげる祭りなのだとすれば、その祭りを司るのが司祭ということだろうかと考えています。
私の知るプロテスタント教会では、牧師は聖書の説き明かしのみで、礼拝の進行役は司会と呼ばれています。会を司ると書いて司会、礼拝は祭ではなく会合なのかと。(聖書でも神の民について「集会」という言葉が使われますし、神と人との会合と考えればいいのかもしれませんが。)

プロテスタント批判だらけになりましたが、私が信仰に導かれたのも、父と子と聖霊の名によってバプテスマを授けられたのも、プロテスタント教会です。それは主から出たものであると信じるゆえに、私は生涯プロテスタントにとどまり続けると思います。
でもそうやってプロテスタントで信仰を守るためにも、カトリックが守ってきたものや積み上げてきたものから学びたいなと。

できれば聖体拝領に与れるといいなとは思いますが、これはカトリックの聖変化の考え方をプロテスタントが認めないというお互いの信条の問題があるので仕方ないことですね。
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