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クリスチャン的、万葉集の読み方

NHKの「日めくり万葉集」、先日の放送のとき「我ながらどうしてこう、何でもかんでも聖書に結びつけたくなるんだろう」と思いました。反射的な習性かもしれません。
ある牧師さんが、KANが歌った「愛は勝つ」を聴いて「これはヨハネ伝だ」と言ったそうです。そんな感じで、その日の放送を見て「これ、このまま再臨待望の讃美歌」と思いました。

我が背子が
帰り来まさむ時のため
命残さむ
忘れたまふな

背子というのは夫のこと。妻が「あなたが帰ってくる時のために生きていますから、どうぞ忘れないでください。」と歌ったものです。(番組ではもっといい感じに現代語訳されてたと思います。)

クリスチャンで勘のいい方だと、もう何を言いたいかわかってしまったかもですが。

「我が背子」は、花婿なるキリスト。

そのキリストが「帰り来まさん時」とは、キリストが再び来られる再臨の日。

「キリストにおいて救いに与った命」を再臨まで保とう、「最後まで耐え忍ぶ者」目指して信仰を守ろう。(ここだけはちょっと強引かも)

最後の「忘れたまふな」ですが、聖書で「忘れる/思い出す」は、ただ心に留めているかどうかを越えて具体的な行動まで含めて使われています。詩編などで神に向かって「思い出してください」というとき、神が忘れていると思っての叫びではないし、思い出してくれるだけでいいというのでもなく、具体的に助けてくださいという意味ですね。
旧約のヨセフを給仕長が「忘れた」というのは「見捨てた」という具体的な選択ですし、「思い出した」ときには具体的にヨセフのための行動を起こしたわけです。
十字架上でキリストに「私を思い出してください」と言った罪人も、ただ思い出して懐かしがってくれればということではなく、陰府から救い出してください(あなたにはその権威があることを信じます)という信仰告白でしょう。
そういう角度から「忘れたまふな」を読むなら、これは「マラナ・タ(主よ来たりませ)」だと思うわけです。

作曲の素養があればぜひ曲をつけたいところです。
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