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イザヤ書6章から現代を見ると

先日、イザヤ書6章を読んでいて、ちょっと興奮してしまいました。千葉バプテスト教会の「聖書を読む会」でのことです。
イザヤはまず、パニックといってよいほどの恐怖を体験します。
災いだ。わたしは滅ぼされる。
わたしはけがれた唇の者。けがれた唇の民の中に住む者。
しかも、わたしの目は
王なる万軍の主を仰ぎ見た。
よく「神をおそれる」ということを「恐れる、ではなく、畏れる」と言いますが、この場面のイザヤはあきらかに畏れだけではなく恐れの中に叩き込まれています。
そんなイザヤにセラフィムが近づき、祭壇の炭火を彼の唇に触れて、彼が言うところの「けがれた唇」を清めたました。…どれだけ熱いんだっていう話ですよね。燃える炭火を突きつけられても逃げようともできないほど、彼は恐怖で硬直していたのでしょう。
とにかくこうしてけがれを清められたイザヤは、ヤハウェの召しに応えて預言者として立つわけですが、そんな彼に託されたヤハウェの言葉は
行け、この民に言うがよい
よく聞け、しかし理解するな
よく見よ、しかし悟るな、と。
この民の心をかたくなにし
耳を鈍く、目を暗くせよ。
目で見ることなく、耳で聞くことなく
その心で理解することなく
悔い改めていやされることのないために。
預言者になったからには、できることなら喜びの知らせを、そうでなくても「悔い改めれば神は怒りをとりさげられる」という希望を告げたいところでしょうが、しかし何の希望もない言葉を告げなければならないというのです。
いったいイザヤはどんな気持ちだったでしょうか。イザヤの気持ちは聖書には書かれていません。

ただ、イザヤはこれに「主よ、いつまででしょうか。」と尋ねています。この一言がまずすごいと思うのです。
イザヤは、自分が告げなければならない内容にも、神が言うからにはそれは成就されてしまう現実なのだということにも、言い表せないようなガッカリを感じたでしょう。「いやされることがない」というのは、「イスラエルは頑迷になって神の前から失われ、回復されることがない」ということでしょうけれど、でもそこでガッカリで終わらず「でもそれはいつまでですか、いつその時が終わってイスラエルが回復されるのですか」と質問したのです。これは「必ずイスラエルは回復される」ということを前提にしています。「悔い改めていやされることのない」というのはイスラエルの最終的な状態ではなく、その時代は必ず終わるという前提です。これを前提にできるのがイザヤのすごいところだと思うのです。
これにヤハウェはこう答えます。
町々が崩れ去って、住む者もなく
家々には人影もなく
大地が荒廃して崩れ去るときまで。
ヤハウェも、これは時限的であると、イザヤの前提が正解であると答えたのです。こうなるとイザヤにとっては、イスラエルが頑迷になり荒廃するというのは悲しむべきことではあるけれども、そのあとに確実に回復されるという保証をもらたったわけですからこれは希望です。

イザヤの心情を思いながら読むだけでもこの6章はすごいなと思うのですが、それだけはありません。

この預言のとおり、イスラエルは頑迷であり続け、その結果としてイザヤが活動した南ユダ王国は滅亡し、人々は散らされます。(その前に北イスラエル王国も滅亡)。こうしてイスラエルはいわゆるディアスポラとなり、そして「悔い改めていやされることのない」時代が続いてきたわけです。
でも現代において、イスラエルの中から、メシアを信じて神との関係を回復する人々が現れ、まだ少数ですがでも確実に増え始めています。イザヤが「いつまでですか」とたずねた、イスラエルの頑迷の時代、「悔い改めていやされることのない」時代が、今、終わりつつあるのです。悔い改めていやされる時代が始まりつつあるということです。
聖書に書かれている神の言葉が、今まさに進行中なのです。私は今、預言(神の言葉)の実現を目撃しているのだ、というのはわくわくしてしまいます。
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