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親の都合で教会ヘ?

「なぜクリスチャンに?」と尋ねられることがあります。

「なぜイエスを信じるようになったのか」ということだと、説明したいことが多すぎで一言では答えられないのですが、「なぜ教会に行くようになったのか」ということなら、私の場合、答えはとてもシンプルです。

「親に連れて行かれたから」

知恵がついてきたころに(たぶん単純に「日曜の朝のTV番組が見たい」とかその程度の理由だったと思いますが)、母に「日本人には信教の自由ってものがあるんだ」と噛み付いたことがあるのですが、母の答えは「そういうことば自立してから言いなさい。この家にいる間はこの家のルールというものがあります」というものでした。

今にして思うとこの母の答えは、ジンケンカツドウカが聞いたらすっ飛んできそうですね。ただ、のちにキリストを受け入れた者としては、この「坂井家のルール」というものはアリだったなぁと思うのです。

自分が親という立場になったからそう思えるのかもしれませんが、親というものは、自分の手にかなう限りのよいものを子供に与えたいと思うものだし、実際に(過保護にならない範囲で)そうあるベきなのだろう、と思うからです。
何が言いたいかというと、衣食住、教育、TV番組、情報といったものについて「何が子供のためによいものかを考え、与えるのが親」であるとするなら、宗教もまた同様だと思うのです。
「この子のためになる食べ物」を与えたいと思う親が是であるなら、「この子のためになる宗教」を与えたいと思うこともまた是であるはずだということです。

問題になるとしたらたぶん、その与え方かもしれないと思います。たとえば「ニンジンは体によい」という確信を持っていても、無理やり子供に与え続けたらニンジン嫌いになるかもしれません。キリスト教も、「親が行くから自分も行かされてる」と思わせてしまっては、かえってキリスト教ぎらいにするだけかもしれない、と。
親が教会を楽しんでいるか、つまらなそうか。神を喜んでいるか、義務でやってるっぽいか。礼拝しているか、礼拝に出席しているだけか。。。

もしも、ですが。親が、教会や牧師に対する不満や文句ばかりだとしたら、「付き合わされている子供」は果たしてイエスを信じるようになるのだろうか。
クリスチャン家庭でよく「信仰の継承」「信仰という遺産」ということが言われますが、私の親は、少なくとも子供の前ではネガティブな反応は示さなかったと思うし、だから私も抵抗をすることがなかったのかなと思うのですが、そうすると私自身は私の子供たちにどのように見えているのでしょうね。「とーちゃんが喜んでいるものを、ぼくも喜びたい」と思ってもらえるようなクリスチャンしているのかどうか。

もうひとつ、子供にとって教会が「お行儀よくさせられて、お話を聞かされて、とかく窮屈」という印象を与えるものだとしたら、これもまた教会嫌いのもとでしょう。
もっともこれは、教会の空気というものも大きいので難しいですが。「おさなごらも礼拝に出席するベき。ただし、大人の邪魔にならないように」というのでは、苦行を強いて教会嫌いを育てるようなものでしょう。
「礼拝」は「出席する」の目的語なのでしょうか。そうではなく「礼拝する」というひとつの能動的な語彙だと思うのです。礼拝は「参加することに意味がある」というよりも「礼拝することに意味がある」というものだと。
「おさなごらも出席するぺき」というのは、「大人は礼拝に出席している(礼拝している、ではなく)」というのが前提になっているのかもしれません。

だからといって、子供たちが騒いでいるのを放っておいてよいというわけにもいきませんし、ことに、よその子なら気にならなくても、自分の子が騒いでいると、肩身が狭く感じたり。

ただ、イエスの周囲にいた子供たちがお行儀よくしていたとは思えないのです。もし子供たちがイエスのもとでお行儀よくしているのが常だったなら、弟子たちは子供たちを止めようとする必要がなかったはずですから。
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