スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

ヨハネ福音書4章6-42、「サマリアの女」の不思議さ

先日、機会があって、ヨハネ福音書4章にあるイエスとサマリアの女とのくだりを読み返しました。

考えてみると、この女は不思議な人物です。
第一に彼女は、少なくとも決してほめられた人物ではなさそうです。5回も結婚し、この時点では夫ではない男性と同棲中。だからといってこの女性を「ふしだらな」と断じてはならない、とは日本バプテスト連盟の「聖書教育」誌の弁ですが、ふしだらとは「だらしがないこと」「男女関係にけじめのないこと」という意味です。「5人の夫がいた」ということ自体は、ちゃんと結婚の手続きを踏んでいる以上は少なくとも表立ってどうこう言われる筋合いはないのですが、「いま連れ添っているのは夫ではない」という状態は「ふしだら」と言うべきだと思うし、そうではないというのは「彼女には解決されるべき問題は何もなかった」と言うのと同じです。ちょっと話がふくらんでしまいましたが、とにかく彼女は、水汲みという重労働を暑い時間帯にしなければならないほど、人目をはばかりたい事情をかかえていたわけです。
第二に彼女は、イエスがメシアであるという確信を持ったから行動したというわけではありません。「メシアかもしれません」としか言えないような段階で、行動しているのです。

にもかかわらず、彼女は町の人々にイエスを伝え、人々をイエスに導き、その結果として人々は自身でイエスに出会い、イエスを経験し、イエスを信じるに至ったのです。

ほめられるような人物ではないままに、イエスをちゃんとわからないままに、彼女は伝道し、もちいられているのです。
このような例が聖書にある以上は、「私なんかが信徒伝道なんておこがましい。もっとちゃんとした人間になって、もっとちゃんと神様のことがわかって、もっとちゃんとした信仰を持ってからでないと」とは言えないじゃないですか。

でもクリ」「こそクリ」という言い方があります。「あれでもクリスチャン?」と言われるような者、そして「あれこそクリスチャン!」と言われるような者ということです。
私なんかはどうしたって「でもクリ」で(ただでさえセルフイメージが恒常的にかなり悪いし)、だからメルマガやWEBサイトで聖書のことを書いていても、あるいは礼拝で子供メッセージを担当するときも、いつも「本当は俺なんかがこんなえらそ-なこと言えないんだよな」という思いとの戦いです。
でもこうしてサマリアの女のことを思い出すと、結局は聖霊の働きであり、御子の魅力というか引力なのだなと思うのです。「俺なんかが」という思い自体が、信徒伝道いえ伝道というものを「人が何がしかのことをすること」ととらえてしまっているということなのかもしれない、と思わされました。実際、あのサマリアの女が町の人たちにイエスを信じさせたわけではなく、彼女はただイエスを伝えただけで、人々は彼女からイエスについて聞いたからではなく自分でイエスの言葉を聞いて信じたわけですし。
「でもクリ」のままでいい。「あれでもクリスチャン?」と言われたら、「こんな私でもクリスチャン!」でいい。尊敬されるような人間になって、聖書のすべてがわかって、それからでないと伝道できないとしたら、私なんて永久に何もできないもの。
スポンサーサイト

Template Designed by DW99

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。