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列王記上19章9-18

少し前、5月13日のことですが、仕事帰りに久しぶりに、京葉線沿線にある教会の聖研祈祷会に出席しました。京葉線通勤になって以来、ときどきお邪魔させていただいている集会です。

この日の聖書箇所は列王記上19章9-18だったのですが、この箇所、すごく面白いという気がします。

まず、エリヤはこの直前(18章)で、バアルの予言者たちを相手に大勝利しています。ところがその直後に思いっきりへこんだのです。
そのへこんだエリヤに、ヤハウェはなすべきことを指示しているのですが、その中でエリシャという者がエリヤの後継者となると伝えられています。

この「大勝利⇒へこむ⇒跡を継ぐ者が示される」という図式がまず、創世記13章~14章のアブラハムと重なると思います。
アブラハム(当時はアブラム)は、たった300人余の手勢でメソポタミアの四王の連合軍を打ち破り、ロトを含むソドム人とその財産を奪還という大勝利をおさめます。
ところがその直後にアブラハムは恐れにとらわる。ヤハウェが彼に「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。」と言わなければならない精神状態になったのです。
その恐れにとらわれたアブラハムに、ヤハウェは「あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」と、跡継ぎについて約束するのです。
「大勝利⇒ヘこむ⇒跡継ぎが与えられることが示される」まるきり同じです。少なくとも、エリヤともあろう者がアプラハムの故事を思い出さなかったはずはないと思うのです。

もうひとつは、この場面のエリヤとモーセの関係です。
まずこのこの場面、天変地異がおきます。この手の天変地異といえば、ヤハウェの臨在のしるしです。しかも「主が通り過ぎた」とあります。モーセの前をヤハウェが通り過ぎたときのことを、エリヤが思い出さなかったはずがないと思うのです。そう考えると、「なのに、その天変地異の中に主がおられない」ということがエリヤに与えた意味を思わずにいられません。
しかも舞台がホレブ山なのです。神の山です。そこで突然「火」がおこった。その火から声があった。となればまるきり、ヤハウェがモーセを召したときの場面そのものです。
火から声。エリヤは、この場所こそモーセが「聖なる場所だから履物を脱げ」と言われたところだと思ったからこそ、顔をおおって洞窟を出たのではないでしょうか。となれば「なのに、この火にも主がおられないなんて!」とエリヤが思わなかったはずがないと思うのです。

この前の場面では、エリヤはベエル・シェバにいます。そこから、おそらくは敵の目をかいくぐりながらシナイ半島を南下して、四十日かかってホレブ山にたどりついています。なぜホレブ山でなければならなかったのでしょうか。なぜエリヤはそこを目指したのでしょうか。
「約束の地」にとどまることは身の危険、でもすがれる相手は主しかいない、そんなエリヤが「国外」で主に出会えそうなところとして思いつくのは、ヤハウェがモーセに「聖なる場所だ、履物を脱げ」と言ったあの場所しかなかったということではないかと思うのです。

そんな場所で主がエリヤに「何をしているのか」と問う。どんなにメゲていようとも、エリヤともあろう者が、これをただの質問と思ったはずがない。主がアダムとエバに「どこにいるのか」とたずねたことを、カインに「アべルはどこか」とたずねたことを、思い出さなかったはずがない。ヤハウェがこのような問いを投げるとき、それはいつも「ちゃんと自分で自分がわかっているかい?」という趣旨です。

読んでいるうちに、わくわくというかドキドキしてしまいました。
ヤハウェはエリヤのために、場所を選ぶことも含めて何重にもヒントをかさねたのではないでしょうか。
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