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その聖書引用の意味がわかりません

キリスト教徒は、イエス・キリストから直々に「世の光たれ」「(世の防腐剤である)地の塩たれ」と命じられています。世から離れた、キリスト教ムラの中だけでの光や塩でいることは許されていないわけです。というわけでキリスト教徒は、個人においても、教会においても、教団や教派というグループにおいても、警世の士であらねばならないわけです。
というわけで、教会や教団教派で、世の中の問題ごとに対して糾弾の声明を出すことがよくあります。

…ここまではいいのですが。

この種の声明でよくあるフォーマットで、どうも腑に落ちないところがあるのです。わかりやすい例として、日本キリスト教協議会(以下、引用文中を除きNCCと略す)が2008年9月11日付けで法務大臣宛に出した、死刑執行に対する抗議文から引用します。(全文はこちらにあります。

…私たち日本キリスト教協議会は、すべての人のいのちは神から与えられたものであるという立場から、人間の力によって人のいのちを奪う死刑執行に反対する立場を表明してきました。私たちは、私たち人間が作り出すどのような力によっても、「ひとつのいのち」の存在の是非を操作しうるものでないということ、人のいのちの存在の始まりと終わりを決めるのは、いつも神のみであると信じています。その神は次のように私たちに語ります。『復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい』(レビ記19章18節)と私たちに教えています。…

「私たち日本キリスト教協議会は」ではじまるこの文章に対して、NCCに属していない私もキリスト者としては同意します[注1]。ただ、では実際に「ひとつのいのち」の存在の是非を操作した殺人者に対してどうするべきかという答えにはなっていませんし、キリスト者でない(つまり「復讐してはならない」という教えを含む聖書を啓典として受け入れていない)人がほとんどである日本人に押し付ける理由にもならないと思いますが、今は死刑の是非について言いたいのではなく、腑に落ちないというのは、彼らがこれを法務大臣に宛てて書いているという点です。

私はキリスト者として、神の言葉である聖書の権威を認めるものです。ですが、日本国の法務大臣は、聖書の権威を認める者ではありません。
何が言いたいかというと、キリスト者がキリスト者以外に対して「聖書にこう書いてあるのだから」という論理で意見することの意味です。

キリスト教徒でない人にとって、キリスト教徒から「聖書にこう書いてあるのだから」という論理で意見されるのは、キリスト教徒にとってモルモン教徒から「モルモン経にこう書いてあるのだから」という論理で意見されるとか、統一教会の人から「統一原理でこう教えているのだから」という論理で意見されるのと、まったく同じだということです。仮に相手の意見が賛成できることだとしても、「モルモン経の教えに従いなさい」「統一原理に従いなさい」では、キリスト者で同意する人はほとんどいないのではないでしょうか。

もちろん私は、聖書の権威とは、人が「権威がある」と認めるかどうかによるものではないことを信仰において告白する者です。聖書を、他の宗教の経典と同列にされるわけにはいかないと考える者です。が、それは私がキリスト教徒だからそれを知っているというだけです。

聖書に権威があることを(まだ)知らない相手に対して、聖書を論拠に訴えてどうなると思っているのかが、まったくわからないのです。かえって、「それはあなたたちが勝手に信じているだけで、私には関係ありません」と聖書を軽んじさせるだけではないかと思うのです。

ついでに言うと、仮に法務大臣がキリスト者だとしても、NCC自身が政教分離を訴えています。行政府の一員たる法務大臣が特定の宗教に重きを置くことは、NCC自身が反対しているはずです。

なのに聖書を引用する。
何のために?

「聖書にこう書いてあるから」という声明に相手が同意した瞬間に「政教分離違反だ」という声明を出すのでしょうか。それとも「他の宗教とは政教分離!ただし自分たちの宗教とならOK」と考えているのでしょうか。
そのどちらかだとしか考えられないのですが、まさか前者のようなあくどい罠を張っているとは思いたくないし、後者にしてもキリスト教徒の「政教分離」とはまず教会と政治とが接近した過ちを反省から来ているはずですから、ないはず、と思いたい。
だとすると、何のために?

上記引用はあくまでも例ですが、国や政治家に向けた声明を出すキリスト教団体の多く、少なくとも私が見た範囲では覚えている限りが、聖書の言葉を声明中に引用します。(さらに、私が見た範囲では覚えている限りすべてが、普段は政教分離を主張している人たちだったりする)。
政教分離の「政」にあたらない人々に向けた声明でも聖書を引用していますが、いずれにせよ、声明文の中に「私たちキリスト教徒は、聖書によってこう考えているのです」という書き方をしたら、「はいはい、あなたたちはそう信仰しているのね。でも私はちがうのよ」以外の反応は期待できないし、まして相手が国や政治家ならそのような反応しかできないのです。
こう考えると、そのような声明は出すだけ無駄、いえむしろ逆効果で、出す側の自己満足にしかならないようにさえ思うのです。

念のためですが、「キリスト者が声明を出すこと」が無駄といっているのではありません。「聖書を論拠にした声明を、聖書を奉じない(もしくは聖書を奉じることを許されない)相手に出すことについて言っているのです。少なくとも、一体どういう結果を期待しているのか見当もつきません。

注1:プロフィールに書いているとおり、現在私は、日本バプテスト連盟(以下、バプ連)の教会で客員教会員、日本同盟キリスト教団(以下、同盟教団)の教会で教会員という立場です。そして同盟教団はNCCに参加していませんが、バプ連はNCCに参加しています。(「日本キリスト教協議会」という名前がキリスト教関係者以外には誤解を与えるのですが、その声明は日本の全てのキリスト教徒の意見を代表するものではありません。団体名は「キリスト教協議会の日本版」といったところです。)
客員とはいえバプ連の教会に連なっている以上は、「属していない」というのは客観的公正に欠ける言い方だと思いますが、現在信仰生活のほとんどをバプ連の教会で守っていながら正式に転会しないでいる理由の一つがNCCの政治的姿勢であるため、ここではあえて「属していない」と書きました。
…もしいつか転会する思いが与えられたら逆に遠慮しなくなりそうで(今は「彼らは」という批評で済んでいますが、それが「私たちは」になったらねぇ。)
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