献血50回で記念品

先日、献血カードのカウンタがめでたく50に到達しました。
というわけで、50回記念のグラスというか、盃というか、おちょこというか、いただいてきました。写真右の緑のものです。
(写真左の黄色は30回記念)
途中、隠れ肥満が悪化して献血前の検査で断られ続けた時期もありましたが、ぼちぼち健康で継続でしてこれました。
冬場は献血者が減るという話で。
ことに震災被災県で、献血バスを運行できなかったなどで大幅に不足し他県から融通しなければならない状況が続いているとの話で。
せっかく健康なのだしと、この冬4回目となる献血ルームでした。
まあ、そういう事情に加えて、50回目が近づいてハリキってしまったということもあるのだけど。
さて次回の記念品は、、、100回なんだよね。50回を越えたら、50回ごとに紫の盃だそうです。
年齢制限のうちに紫をもらえるようがんばります。
それよりも、10回記念の青をもらってないのがなぁ。ぼくが10回到達したときはこのせいどがなかったのかな。
収拾癖のある身には、永久にコンプできないのは残念。もし150回に到達するようなことがあったら、二つ目の紫の代わりに青をいただけないか交渉してみたい。って、年間の回数制限もあるから無理かな?
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バカボンのパパと同い年になりました
今日、41歳になりました。
バカボンのパパと同い年です。…それはどうでもいいですね。
数えなら42歳、厄年です。もっとも3月くらいまで、自分が本厄だということに気づいていなかったのですから、ある意味シアワセ者というか、ノンキというか。去年は、自分が前厄だということに気づかないまま1年を過ごしたわけです。
厄年で言う「悪いこと」ってそもそもなんだろう、ということでいろいろ見ていたら、大手の神社さんのサイトにおもしろいデータが出ていました。「大手」というのが妥当な表現かわかりませんが、年末になるとテレビCMや電車の中吊り広告で厄除け祈願の広告をかなり打っているメジャーどころのひとつです。
「厄年の厄払いをしましたか」というアンケートの結果、Yes71%、No29%。
「厄年のとき何か悪いことが起こりましたか」とういアンケートの結果、Yes54%、No46%。
さらに、『偶然かもしれないが「Yes」と答えた人の7割以上が、厄払いをしなかった人たちで占められるという恐ろしい結果となった。』とありました。
他人の信心をどうこう言うつもりはないのですが、これは数字のマジックに近いと感じました。
「何か悪いことが起った人の7割以上が厄払いをしていなかった」というのは、「何か悪いことが起った人の3割近くが、厄払いしたのに霊験がなかったという恐ろしい結果となった。」ということですよね。
こういう割合というものを扱うときには常に分母に気をつけなきゃいけなくて、「厄払いした人の3割に霊験がなかった」のではなく「悪いことがあった人の3割が」なのですが、それにしても、「偶然かもしれないが」と煙幕を張りながら「恐ろしい結果」と言って7割にだけ目を向けさせる。
あくまでも個人的な印象ですが、「先祖を供養しないとバチがあたる」「この壺を買わないと不幸になる」「脱会すると地獄に落ちる」とういのと何が違うのだろうと感じてしまいました。
しかも「何か悪いこと」とは何かというと、病気、けが、事故、身内の不幸、学業や商売上のことかと思ったら、もちろんそれもあるのですが。。。
「厄払いしなかったら悪いことがあった」というその悪いことの中に「浮気がばれた」というのまで堂々と書かれていました。「浮気をしてしまった」のが「悪いことがあった」の中身ならわかるのですが。「ここの大師さんで厄払いしておけば、浮気がばれたりしなかっのに」ということなのかなぁ。

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バカボンのパパと同い年です。…それはどうでもいいですね。
数えなら42歳、厄年です。もっとも3月くらいまで、自分が本厄だということに気づいていなかったのですから、ある意味シアワセ者というか、ノンキというか。去年は、自分が前厄だということに気づかないまま1年を過ごしたわけです。
厄年で言う「悪いこと」ってそもそもなんだろう、ということでいろいろ見ていたら、大手の神社さんのサイトにおもしろいデータが出ていました。「大手」というのが妥当な表現かわかりませんが、年末になるとテレビCMや電車の中吊り広告で厄除け祈願の広告をかなり打っているメジャーどころのひとつです。
「厄年の厄払いをしましたか」というアンケートの結果、Yes71%、No29%。
「厄年のとき何か悪いことが起こりましたか」とういアンケートの結果、Yes54%、No46%。
さらに、『偶然かもしれないが「Yes」と答えた人の7割以上が、厄払いをしなかった人たちで占められるという恐ろしい結果となった。』とありました。
他人の信心をどうこう言うつもりはないのですが、これは数字のマジックに近いと感じました。
「何か悪いことが起った人の7割以上が厄払いをしていなかった」というのは、「何か悪いことが起った人の3割近くが、厄払いしたのに霊験がなかったという恐ろしい結果となった。」ということですよね。
こういう割合というものを扱うときには常に分母に気をつけなきゃいけなくて、「厄払いした人の3割に霊験がなかった」のではなく「悪いことがあった人の3割が」なのですが、それにしても、「偶然かもしれないが」と煙幕を張りながら「恐ろしい結果」と言って7割にだけ目を向けさせる。
あくまでも個人的な印象ですが、「先祖を供養しないとバチがあたる」「この壺を買わないと不幸になる」「脱会すると地獄に落ちる」とういのと何が違うのだろうと感じてしまいました。
しかも「何か悪いこと」とは何かというと、病気、けが、事故、身内の不幸、学業や商売上のことかと思ったら、もちろんそれもあるのですが。。。
「厄払いしなかったら悪いことがあった」というその悪いことの中に「浮気がばれた」というのまで堂々と書かれていました。「浮気をしてしまった」のが「悪いことがあった」の中身ならわかるのですが。「ここの大師さんで厄払いしておけば、浮気がばれたりしなかっのに」ということなのかなぁ。

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親の都合で教会ヘ?
「なぜクリスチャンに?」と尋ねられることがあります。
「なぜイエスを信じるようになったのか」ということだと、説明したいことが多すぎで一言では答えられないのですが、「なぜ教会に行くようになったのか」ということなら、私の場合、答えはとてもシンプルです。
「親に連れて行かれたから」
知恵がついてきたころに(たぶん単純に「日曜の朝のTV番組が見たい」とかその程度の理由だったと思いますが)、母に「日本人には信教の自由ってものがあるんだ」と噛み付いたことがあるのですが、母の答えは「そういうことば自立してから言いなさい。この家にいる間はこの家のルールというものがあります」というものでした。
今にして思うとこの母の答えは、ジンケンカツドウカが聞いたらすっ飛んできそうですね。ただ、のちにキリストを受け入れた者としては、この「坂井家のルール」というものはアリだったなぁと思うのです。
自分が親という立場になったからそう思えるのかもしれませんが、親というものは、自分の手にかなう限りのよいものを子供に与えたいと思うものだし、実際に(過保護にならない範囲で)そうあるベきなのだろう、と思うからです。
何が言いたいかというと、衣食住、教育、TV番組、情報といったものについて「何が子供のためによいものかを考え、与えるのが親」であるとするなら、宗教もまた同様だと思うのです。
「この子のためになる食べ物」を与えたいと思う親が是であるなら、「この子のためになる宗教」を与えたいと思うこともまた是であるはずだということです。
問題になるとしたらたぶん、その与え方かもしれないと思います。たとえば「ニンジンは体によい」という確信を持っていても、無理やり子供に与え続けたらニンジン嫌いになるかもしれません。キリスト教も、「親が行くから自分も行かされてる」と思わせてしまっては、かえってキリスト教ぎらいにするだけかもしれない、と。
親が教会を楽しんでいるか、つまらなそうか。神を喜んでいるか、義務でやってるっぽいか。礼拝しているか、礼拝に出席しているだけか。。。
もしも、ですが。親が、教会や牧師に対する不満や文句ばかりだとしたら、「付き合わされている子供」は果たしてイエスを信じるようになるのだろうか。
クリスチャン家庭でよく「信仰の継承」「信仰という遺産」ということが言われますが、私の親は、少なくとも子供の前ではネガティブな反応は示さなかったと思うし、だから私も抵抗をすることがなかったのかなと思うのですが、そうすると私自身は私の子供たちにどのように見えているのでしょうね。「とーちゃんが喜んでいるものを、ぼくも喜びたい」と思ってもらえるようなクリスチャンしているのかどうか。
もうひとつ、子供にとって教会が「お行儀よくさせられて、お話を聞かされて、とかく窮屈」という印象を与えるものだとしたら、これもまた教会嫌いのもとでしょう。
もっともこれは、教会の空気というものも大きいので難しいですが。「おさなごらも礼拝に出席するベき。ただし、大人の邪魔にならないように」というのでは、苦行を強いて教会嫌いを育てるようなものでしょう。
「礼拝」は「出席する」の目的語なのでしょうか。そうではなく「礼拝する」というひとつの能動的な語彙だと思うのです。礼拝は「参加することに意味がある」というよりも「礼拝することに意味がある」というものだと。
「おさなごらも出席するぺき」というのは、「大人は礼拝に出席している(礼拝している、ではなく)」というのが前提になっているのかもしれません。
だからといって、子供たちが騒いでいるのを放っておいてよいというわけにもいきませんし、ことに、よその子なら気にならなくても、自分の子が騒いでいると、肩身が狭く感じたり。
ただ、イエスの周囲にいた子供たちがお行儀よくしていたとは思えないのです。もし子供たちがイエスのもとでお行儀よくしているのが常だったなら、弟子たちは子供たちを止めようとする必要がなかったはずですから。
「なぜイエスを信じるようになったのか」ということだと、説明したいことが多すぎで一言では答えられないのですが、「なぜ教会に行くようになったのか」ということなら、私の場合、答えはとてもシンプルです。
「親に連れて行かれたから」
知恵がついてきたころに(たぶん単純に「日曜の朝のTV番組が見たい」とかその程度の理由だったと思いますが)、母に「日本人には信教の自由ってものがあるんだ」と噛み付いたことがあるのですが、母の答えは「そういうことば自立してから言いなさい。この家にいる間はこの家のルールというものがあります」というものでした。
今にして思うとこの母の答えは、ジンケンカツドウカが聞いたらすっ飛んできそうですね。ただ、のちにキリストを受け入れた者としては、この「坂井家のルール」というものはアリだったなぁと思うのです。
自分が親という立場になったからそう思えるのかもしれませんが、親というものは、自分の手にかなう限りのよいものを子供に与えたいと思うものだし、実際に(過保護にならない範囲で)そうあるベきなのだろう、と思うからです。
何が言いたいかというと、衣食住、教育、TV番組、情報といったものについて「何が子供のためによいものかを考え、与えるのが親」であるとするなら、宗教もまた同様だと思うのです。
「この子のためになる食べ物」を与えたいと思う親が是であるなら、「この子のためになる宗教」を与えたいと思うこともまた是であるはずだということです。
問題になるとしたらたぶん、その与え方かもしれないと思います。たとえば「ニンジンは体によい」という確信を持っていても、無理やり子供に与え続けたらニンジン嫌いになるかもしれません。キリスト教も、「親が行くから自分も行かされてる」と思わせてしまっては、かえってキリスト教ぎらいにするだけかもしれない、と。
親が教会を楽しんでいるか、つまらなそうか。神を喜んでいるか、義務でやってるっぽいか。礼拝しているか、礼拝に出席しているだけか。。。
もしも、ですが。親が、教会や牧師に対する不満や文句ばかりだとしたら、「付き合わされている子供」は果たしてイエスを信じるようになるのだろうか。
クリスチャン家庭でよく「信仰の継承」「信仰という遺産」ということが言われますが、私の親は、少なくとも子供の前ではネガティブな反応は示さなかったと思うし、だから私も抵抗をすることがなかったのかなと思うのですが、そうすると私自身は私の子供たちにどのように見えているのでしょうね。「とーちゃんが喜んでいるものを、ぼくも喜びたい」と思ってもらえるようなクリスチャンしているのかどうか。
もうひとつ、子供にとって教会が「お行儀よくさせられて、お話を聞かされて、とかく窮屈」という印象を与えるものだとしたら、これもまた教会嫌いのもとでしょう。
もっともこれは、教会の空気というものも大きいので難しいですが。「おさなごらも礼拝に出席するベき。ただし、大人の邪魔にならないように」というのでは、苦行を強いて教会嫌いを育てるようなものでしょう。
「礼拝」は「出席する」の目的語なのでしょうか。そうではなく「礼拝する」というひとつの能動的な語彙だと思うのです。礼拝は「参加することに意味がある」というよりも「礼拝することに意味がある」というものだと。
「おさなごらも出席するぺき」というのは、「大人は礼拝に出席している(礼拝している、ではなく)」というのが前提になっているのかもしれません。
だからといって、子供たちが騒いでいるのを放っておいてよいというわけにもいきませんし、ことに、よその子なら気にならなくても、自分の子が騒いでいると、肩身が狭く感じたり。
ただ、イエスの周囲にいた子供たちがお行儀よくしていたとは思えないのです。もし子供たちがイエスのもとでお行儀よくしているのが常だったなら、弟子たちは子供たちを止めようとする必要がなかったはずですから。
墓参り
浅草のとあるお寺さんに、うちの先祖累代の墓があります。先日、都営浅草線の沿線駅に社用で出たので、用件が済んでから早退扱いにして、久しぶりに墓参りしてきました。
この前、ばあちゃんの命日には来られなかったし。
私が今あるのはご先祖のおかげなんだなぁという思いがあります。
「主が私を愛してくださったから」というのが一番大きいのですが、主がご先祖をも愛してくださってその恵みが千代に及ぶという約束のうちに私があるということだとも思うのです。
ご先祖は主を知らなかったかもしれませんが、主は善人にも悪人にも陽を昇らせ慈雨をたまう神ですから。
もっとも、ご先祖とはいっても、ばあさまは養女でじいさまは入り婿だから、それより前とは血はつながってないのですが。(こういう場合「千代」はどうなるのだろう)
もうひとつ、「人が裁かれるのは世の終わりの時なのだから、生前には信仰に入らなかったご先祖のためにとりなしを祈るのはまだ間に合う」という思いがあります。
陰府でどのようにして福音に触れたり信じたりできるのかは、私の理解できる範囲では聖書には明らかではありません。ですから、いわゆるセカンドチャンス論を全面的には支持しにくいのですが、裁きはまだだというのは聖書から明らかなので、神に信頼し期待して、とりなしを祈っていこう。
それで、墓前で「神様、ばあちゃんやご先祖のことよろしくお願いします」と祈ってきました。
この前、ばあちゃんの命日には来られなかったし。
私が今あるのはご先祖のおかげなんだなぁという思いがあります。
「主が私を愛してくださったから」というのが一番大きいのですが、主がご先祖をも愛してくださってその恵みが千代に及ぶという約束のうちに私があるということだとも思うのです。
ご先祖は主を知らなかったかもしれませんが、主は善人にも悪人にも陽を昇らせ慈雨をたまう神ですから。
もっとも、ご先祖とはいっても、ばあさまは養女でじいさまは入り婿だから、それより前とは血はつながってないのですが。(こういう場合「千代」はどうなるのだろう)
もうひとつ、「人が裁かれるのは世の終わりの時なのだから、生前には信仰に入らなかったご先祖のためにとりなしを祈るのはまだ間に合う」という思いがあります。
陰府でどのようにして福音に触れたり信じたりできるのかは、私の理解できる範囲では聖書には明らかではありません。ですから、いわゆるセカンドチャンス論を全面的には支持しにくいのですが、裁きはまだだというのは聖書から明らかなので、神に信頼し期待して、とりなしを祈っていこう。
それで、墓前で「神様、ばあちゃんやご先祖のことよろしくお願いします」と祈ってきました。
続・日本史が好き
- Q1 護衛にするなら? 伊達の麒麟児・伊庭八郎 or 無類の天才剣士・沖田総司
- A1 伊庭八郎。「幕末遊撃隊」での伊庭が、いちいちかっこよかったので。
- Q2 護衛にするならやっぱりこの組! エリート警察・見廻組 or 剣客集団・新選組
- A2 新撰組。本心がどうでも隊命となれば文字通り命がけで護衛してくれそう。
- Q3 師匠にするなら? 素材を引き出す・吉田松陰 or 適塾の塾頭・福沢諭吉
- A3 福沢諭吉。やっぱり現実志向で。ただ「もしも松陰が長生きしたとしたら」というのを考えるのは面白いかも。
- Q4 議論で頼りにしたいのは? 粘りの弁舌・徳川慶喜 or 勢いで一喝・山内容堂
- A4 どちらも詳しくありませんが、勢いで一喝というのは「その場は収まっても」になりそうなので、慶喜公。
- Q5 共に行動するなら? 命知らず・藤堂平助 or 逃げるの得意・桂小五郎
- A5 桂は「共に行動」しても自分だけ逃げそうなので、藤堂。
- Q6 外国に行くなら? 小栗忠順とアメリカ or 高杉晋作と中国
- A6 高杉晋作と中国に行った上で、「この西洋列強相手に馬関戦争は無茶だって。ほかのやり方考えようよ」と説得したい。
- Q7 敵に回したくないのは? 暗殺者・河上彦斎 or 鬼の副長・土方歳三
- A7 イメージですが河上彦斎。土方に切られるなら「まあ、しゃーないか」と思えそうだけど、彦斎に切られるなら「なんでぇ?」になりそう。
- Q8 身に付けるならこの流儀! 流行の北辰一刀流で仲間も増やす or 真面目に剣の追求・天然理心流
- A8 北辰一刀流かな。千葉周作が教え上手だったそうで、私でも何とかなるかも。
- Q9 この藩で働きたい!(東編) 東軍筆頭・会津藩 or 幕末最強・庄内藩
- A9 庄内藩のことは知りませんが、筋を通す会津藩で。
- Q10 この藩で働きたい!(西編) 朝敵からの大逆転・長州藩 or 時代の最先端・佐賀藩
- A10 佐賀藩のことは知りませんが、禁裏を砲撃するようなところよりは佐賀藩で。