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アニメ「ちはやふる2」

アニメ「ちはやふる2」に二週続けて泣かされた。

以下、ネタばらし含みます。

先週の団体戦優勝は、まあ、仕方ない。何週か前から「優勝できないって展開もアリだけど、優勝したらオレ泣くぞ」と思ってたもの。

とにかく先週でいったんメデタシとなっての、昨夜の放送。
個人戦どうなる?
ちはやの負傷の具合は?
という話になると思ったら、団体戦の回顧シーンたっぷりでまた泣いてしまった。

ずるいぞ。(誰が?)

まあ、一人で見てる時でよかったよな。
四十路なかばのオヤジが少女漫画アニメで夜中に泣いてる図なんて、見られたもんじゃない。
どうも昔から「かわいそう」「がんばれ」では絶対泣かないけど「よかったねぇ」には極端に脆くていかん。

長女の部屋には原作コミックスがならんでるのだけど、放送終わるまで絶対に読まないぞと。
…「モーレツ宇宙海賊」も、放送終わるまで原作小説を我慢と思ったけど、結局そのまま読んでないな。そろそろ探すか。笹本裕一なんて面白いに決まってるし(ぼくの趣味にとっては)
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「とうきょうスカイツリー駅」なんて陳腐な

東武鉄道伊勢崎線「業平橋駅」がついに「とうきょうスカイツリー駅」になってしまいました。
だれがうれしいのだろう。
だれのためなんだろう。

業平橋駅は、近くにある吾妻橋の別名が業平橋で、その周辺の町名も業平であることに由来して命名されたそうです。
在原業平が主人公とされる「伊勢物語」でこの付近を舞台とした段があり、その中に出てくる「吾妻橋」の別称として業平橋と呼ばれるようになった、とwikipediaに書いてありました。

業平は、藤原高子姫に手を出したために藤原氏の怒りにふれ、駆け落ちに失敗して姫を取り返されてしまったあと、むなしくなって東国へ都落ちしていきます。
武蔵の国と下つ総の国との中に、いと大きなる河あり。それをすみだ河といふ。(中略)白き鳥の嘴と脚と赤き、しぎの大きさなる、水の上に遊びつつ魚を食ふ。京には見えぬ鳥なれば、みな人見知らず。渡しもりに問ひければ、「これなむ都鳥。」と言ふを聞きて、『名にし負はば いざこと問はむ都鳥 わが思ふ人はありやなしやと』とよめりければ、舟こぞりて泣きにけり。

つまりですね。

東京と千葉の間に大きな隅田川がある。
そこで、くちばしと脚だけ赤くてあとは白い、シギくらいの大きさの鳥が魚をとって食べていた(この描写は現在ミヤコドリと呼ばれている鳥よりもユリカモメではないかと言われているそうです)。
京の都では見ない鳥なので一行の誰もしらない。
船頭に尋ねてみると、「これこそミヤコドリ」と言う。
そこで
「名前にミヤコと背負っているくらいだから、さあ尋ねさせておくれよミヤコドリ。私の想うあの人、高子姫はどうしているかと」
と歌うと、船中のみんなが涙にくれた。

というところまで、公立高校の古文で伊勢物語をやったときにおもしろくておぼえてたんだけどさ。
伊勢物語が当時大ヒットしたというのもわかるわ。業平くん、なんの力もないけど、おしゃれなんだよね。(時代と作者名と作品名だけじゃなくて、こういう「ちゃんとおもしろいもの」をちゃんと扱えば、古文とか日本史とかぜったいに面白くなると思うんだけど。)

ところが、話はこれで終わってなかった。
平安初期に成立したこの伊勢物語をのちに読んだ宜秋門院丹後(平安末期~鎌倉時代)がこんな歌を残しています。
おぼつかな
都に住まぬ都鳥
言問ふ人にいかが答へむ
要するに「わからないわねぇ。隅田川のミヤコドリは京の都に住んだことないだろうに、たずねられても高子姫のことなんてどうやって答えろっていうのかしら」ということですね。

整理すると。
平安時代に業平はミヤコドリ(と船頭というか東国人)にツッコミを入れたわけです。
すると鎌倉時代に、業平は自分のそのツッコミのことで、つっこまれたわけです。
まるでトリオ漫才。

業平クンがこれを聞いたらどうしただろう。
「いやいやぼくはね、わかっててつっこんだんですよ。ミヤコドリなんて名乗ってたって答えられるわきゃないだろ、と意味だったんですけどね」
などと真正面から答えるようなことは、彼はしないでしょう。
スマートに、少しナナメくらいからのおしゃれな返歌を返すだろうなぁ。

なんていうことが、「業平橋駅」というたった4文字の駅名からただよう。ただよわせることもできる。
「とうきょうスカイツリー駅」などという、情緒もおもしろさもロマンもへったくれもないものからは、商売っ気しか感じないなぁ。
しかもわざわざ平仮名にして。外国人観光客は「東京スカイツリー」に行くのに「とうきょうスカイツリー駅」を探さなきゃいけない。親切のつもりがアダになるってやつだ。


(2010年末にmixi日記に書いたものを加筆再編集しました)

本「自転車依存症」

白鳥和也 著
平凡社 刊
2006年11月15日 初版
ISBN4-582-83344-6

図書館でタイトルに釣られて借りた一冊。
著者は「こよなく愛する自転車の旅と、もうひとつのテーマである文学をクロスオーバーさせ、走って、撮って、書く活動を続けている」のだそうです。

正直、この本を読むのは早すぎたかもしれない。
もっと自転車マニアな人だったら、もっと言葉を楽しめるのかも。
専門用語とか、わけわからないし。
でも面白かったので、以下、印象に残ったところを。
当然仮説ではあるが、自転車というものは、そもそもその人の持っている特性を、さらに増幅し、拡張し、強調するのではないか。この仮説が正しければ、もともと、ある傾向の強い人々が、スポーツサイクルに乗ると、ますますその傾向が増強されるということになる。(p59)

これは否定できないな。著者は「出力過剰症候群」と名付けてますが、これ私にも当てはまるかも。
基本、おしゃべりなのだけど、それは会話を楽しみたいというよりも「一方的に話したい」に近いし。それはWEBにおける私にも現れてると思う。とにかく出力(アウトプット)したくてしょうがない。


本書の後半は、自転車に限らず「のめり込むということ」あるいは「のめり込んだ状態」についての、観察というか考察というか。
車、カメラ、そして鉄道と、自転車旅とつながりながらもそれぞれがディープな世界について、おもしろく書かれています。だから、「何が好きかと言われたら、とりあえず自転車と答える」という程度でしかない私でも楽しめた一冊かも。何かの趣味を持っている人なら、きっと楽しめる本。

数ある鉄道趣味(乗り鉄とか、撮り鉄とか)に加えて、著者は銀鉄つまり「銀輪+鉄道」という提案しています。輪行と鉄道という相性もありますが。
鉄道に乗ること自体はまことに愉しく、車窓からの風景は何時間見続けても飽きないが、実際に乗車していると、素晴らしい風景の中を進む列車自体は見ることができないというジレンマが生じる。そういうわけで、前述したように私のような銀鉄には、線路に沿う道をひとつの目安として走行コースをとる場合も多い。これすなわち「添い鉄」というべきか。(p227)

この問題は私も日ごろ感じていたもので、できることなら最後尾近くの車両に乗り、カーブで一刹那だけ見ることができる「先頭車両が風景の中を走る風景」を楽しもうとしたりもします。
そして言われてみれば、私も居住地から実家へと内房を南下するとき、国道を走ったほうがアップダウンもなく楽なはずなのに、わざわざ内房線に沿った旧道を走ってるなと(アップダウンがなさすぎるのもつまらないしね。)。レバーひとつでタイヤがはずせるような自転車じゃないので輪行したことがない、だから銀鉄を名乗るのはピントはずれかもだけど、添い鉄は名乗っていいかも。

興味深かったのは、「サイクリスト」と、「健康やエコのために自転車に乗る人」との違いについてでした。
どうも、われわれサイクリストには、自分はけっこうマイナーな趣味や道楽である自転車に入れ込んでいる少々変わった人間だという意識があるのではないか。いや、最近の、環境のためとか、効率的な都市交通とか、中高年にもよい有酸素運動とか、そういう理屈がきちんとついたところで始めた人たちは違うのかもしれないが。(中略)サイクリストたちが仲間だと認めるのは、本当に好きで自転車に乗るやつだけである。自転車に乗らなければならない必然性はないのに、そこに自転車があり、道があり、上り坂があるから、ただそれだけで自転車に乗る、そういう阿呆だけである。(p247-248)

これは、よくわかるなぁ。私なんて「自転車が趣味でござい」なんて恥ずかしくて言えないくらい、ごくたま~にしか遠出はしない。しかもいったん遠出すると、高カロリーの飲食物を摂取し続けながら走ったりするから、たぶんダイエット効果は期待できない。排ガスを吸い続けて健康に悪い。そもそも車の免許ないのでエコが目的ではない。ただ、気持ちいいから自転車に乗る。絶対に押して歩いたほうが早いような坂をぜぇぜぇ言いながら上るのも気持ちいい。体力がほぼ尽きてフラフラしながら惰性でペダルを踏むのも気持ちいい。阿呆だなぁ。

CSキャンプ

中野教会(日本同盟基督教団)上ノ原教会学校で恒例の小学生夏キャンプが、奥多摩バイブルシャレーで先週金土日に行われました。

私は4年ぶりのスタッフ、しかも都合により金の夜に合流し土の午後に失礼する部分参加となりましたが、楽しんできました。
…部分参加のわりにヘトヘトになりましたけど。

今年のテーマはマタイ伝の八福から「心の貧しい者は幸いである」の箇所。
これ、かなり重いですよね、子供のキャンプとしては。

今回、私が担当したことのひとつが、子供たちによる劇の指導。初担当で、このテーマ。(しかも担当になったのが前週の日曜だから実質5日ほどしかなかった。)
なんとか骨子を組み上げ、あとは子供たちと一緒に作り上げました。劇本番が金曜夜のお楽しみ会なので私は見られなかったけど、あとで聞いた話ではなかなかいいものになったみたい。
しかし、難しかったぁ。

ヒーロー

先日NHKでウルトラマンと仮面ライダーの歌についての番組をやっていたので、子供たちからチャンネル権を奪ってノリまくって歌いながら見ていました。
そうしたらウルトラマンレオのところで次男が「レオレオってうるさい!」と。確かにこの歌は、ヒーローの名を思い切り連呼しますからね。

ん?待てよ?

ヒーロー番組の主題歌で主人公の名を連呼するのって、私には当たり前なのだけど?

あれ?そういえば…

「○ちゃんにとって、テレビのヒーローって誰?」
と聞いてみました。
するとやっぱり、「わかんない」と。

やっぱり、というのは、たとえばスーパー戦隊はなぜか我が家では見ません(タイムレンジャーはとーちゃんは見てたけど)。
仮面ライダーWはとーちゃんしか見ない。日曜のその時間、我が家ではポケモンサンデーだし。
あとうちの子が好きなのはイナズマイレブンとかカテキョー リボーンとか、「すごい登場人物」はいても、「正義の味方」という意味でのヒーローは見当たらないものばかりな気が。

いいか悪いかということではないかもしれない。
単純な勧善懲悪でウケる時代ではないかもだし。フィクションの世界に 限らず、スポーツなどでもヒーローが「消費」される時代だし。

ただ、私の世代なんかだと、マジンガーZあたりからキン肉マンなどまで、ヒーローはたくさんいました。そうしたなかから、この年になっても、レオの「誰かが立たねばならぬ時」とか、「キャシャーンがやらねば誰がやる」なんて言葉で自分に発破かけたりとか。

それに、ヒーロー像というものがあるからこそ、アンチヒーローって言うんでしょうかルパン三世やゴルゴ13みたいな反社会的だったり破壊的だったりするキャラクターたちも、強い印象を持つのかも。

大袈裟に考えることでない気もしますし、探せば深く考察しているものもあるのでしょう。
ただ、がんばってがんばって戦い抜き守り抜くヒーローをハートに持っているかどうかは、何かが違ってきそうな気がするのです。


(ここで「そしてキリストが究極のヒーロー」なんて言うのは、いかにも取って付けた感じになってしまいますね。)

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