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日本語の「ありがとう」

普通に使っていたけど実は素敵な言葉だった、と思う日本語の話。最近では「おもてなし」とか、少し前なら「もったいない」とか。それは、そうした言葉を持つ文化に、その言葉が表す感性の国に、生かされているんだなという感動なのだと思う。
で、「ありがとう」という日本語も実は素敵だったんだなと。

NHK-ETVの「こころの時代~宗教・人生~」、先日は「お大師様に導かれ」と題して、弘法大師が開いたとされる徳島の大日寺の住職が取り上げられていました。四国八十八ヶ所で初の外国人住職であるキム・ミョウソンさん、女性です。

キムさんは韓国伝統舞踊の名手で、韓国大統領賞を受賞した記念の来日公演で大日寺の宿坊に泊まったのが最初の縁となり、先代住職と結婚。
先代住職の支援のもと結婚後も舞踊で活躍を続けていたのが、先代住職が亡くなってから得度し、漢字の読み書きもできなかったのに猛勉強して大日寺の住職に就いたという。その苦労は並大抵ではなかったことでしょうが、今は「何事も弘法大師のお導き」といってお遍路さんを迎え寺を切り盛りしているキムさんに、力をあたえてくれた日本語が「ありがとう」だったと。
「大変だったとき、私がこれをどうやって乗り越えるのか、思ってたのはやっぱり住職の愛でした。11年間、毎日私に『ありがとう』こう言ってくれた声が、ずっと毎日聞こえてました。」というキムさんは、「ありがとう」という日本語について次のように語っていました。

世界で一番立派な言葉は、私は日本語だと思います。
私、世界ほとんど参りました。あの、どんな国でも「ありがとう」(という)表現はありますけれど、日本だけが立派な立派な愛の表現持ってます。日本人は感じてないかもわかりませんけれど。
(聞き手「英語だとThank you、あなたに感謝しますっていう言い方しますね?」)
その言葉ね、どんな国でもありますよ。この表現あります。でも日本だけ持ってる本当に立派な表現があります。
日本語(の)「ありがとう」は、翌日会っても「昨日はどうもありがとうございました」、済んだことを、過去のことを、お礼言う。この言葉は日本だけです。
一週間経っても「このあいだ、ありがとうございました」、本当にきれいな表現です。
世界は、済んだことは言わないですよ。あの時だけ、当時、なにかいただいたら、何かされたら「ありがとう」言うけれど、「このあいだ」「昨日は」これは日本だけの表現でした、確かに。

その立派な日本語を、あんまり家族に表現しないんですよ、家族に。
(聞き手「ちょっと照れくさいとか」)
そうです。だから他人には、人々には、いつもその表現、立派な、世界一のやさしい、きれい、愛の表現、しょっちゅうしょっちゅう毎日毎度やっておりますけれど、家族に言わないんです。
だから家族に毎日ありがとう、特に目をあわせて、大きな声で元気よく笑顔で毎日ね。


最後は住職らしく「説法モード」になったみたいですが。
上記は言語や文化の学者の見解ではなく、「個人の意見」に過ぎないかもしれません。でも言われてみると確かに、Thank youの過去形とかって教わった記憶ないです。

日本語の「ありがとう」は、その時かぎりでなく、その後もずっと続く相手との関係性の中で「あのときの恩は忘れていませんよ」ということまであらわしているのかも。そうしたことは他国にもあるかもしれないけれど、感謝の言葉の使い方として表せているのは、キムさんに言わせれば日本語だけだと。
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障害者団体が「障碍」表記に反対って

常用漢字表に追加する候補の漢字196字が、新聞に載っていました。(21年10月24日付け読売新聞)
記事の中に、追加要望が「鷹」に続いて多かった(つまり2位か)字について書かれていました。
「碍」は、障害者団体などの間で使用について賛否がわかれていることなどを理由に追加されなかった。
思わず「へぇ~」です。

賛否の賛のほうはよくわかります。ハンディキャップドはもともと「障碍」と書いていたのを、「碍」の字が常用漢字から外されたために、「害」の字を当てるようになったもの。でも実際には「碍」と「害」は、読みの音は同じだけど意味はかなり違います。「害」にあるような他者に被害を与えるようなニュアンスが、「碍」にはみあたらないのです。だから「障碍」に戻せということなのですね。

賛否の否のほうはわかりません。障害者団体が「障害のままのほうがよい」と考えているということでしょうか。だとすると「障害」という表記を団体名などに使っているので変更してほしくない、というくらいしか理由が想像できないのだけど。
それとも「障害者団体など」の「など」という部分なのか。そのうち文化審議会のサイトの国語分科会漢字小委員会に10月23日の議事録が出るでしょう。(でも前回9月8日の議事録もまだなんですけど。前々回7月28日は議事録あり。)

碍の字に反対意見ということは、「障害者団体など」には「障害という書き方でいい」という意見があるということですから、つまり、かなり善意的に解釈したとして「自分たちは『障がい』と書くけど、学校で教えるとかマスコミが書くとかは『障害』でいい」という意見が「障害者団体など」にあるということですね。
しかもそれは決して少数意見ではなく、少なくとも「賛」は多数意見ではないよ、というくらいには「否」も多いのでしょう。
実は私もできるだけ意識して「障碍者」と書くように心がけようとはしていたのですが、少なくない「障害者団体など」がいやがるのなら、常用漢字表に従って書くようにしましょうか。

一応、「碍」を三省堂の漢辞海で調べてみたところ、「礙」(化けないででるかな。石へんに「疑」です)を見ろとありました。
[一]動詞
(1)さまたげる。(ア)制止する。とどめる。(イ)見えなくする。さえぎる。(ウ)じゃまをする。
[二]名詞
(1)気がかり。
こうすると、ハンディキャップドを表すのには適した字ですね。足に碍があるから、歩くことがさまたげられ制止される。目に碍があるから、見ることがさえぎられさまたげられる。発音がさまたげられるから吃音。

しかし、名詞として「気がかり」とは。
ん?
なるほど!
つまり「碍」と書くことに否な人は「ハンディキャップドな人たちを、あえて気にかけることはない」ということですね。特別視することではないんだよ、普通なんだよ、ということでしょう。気にかけて、手を差し伸べたりする必要はないんだよ、と。

ところで、今回「碍」は常用漢字への追加候補から外されましたが、「ハンディキャップドが害とはどういうことだ」ということで「障がい者」と交ぜ書きにするのがジンドーテキということになっているようです。
でも、そもそも常用漢字は「これ以外は使っちゃいかん」という意味ではないのだから、マスコミなどに「障害者と書くな、障碍者と書け」と要求すればいいんじゃないでしょうか。
たとえば、「北朝鮮」なんて言うな、という意見をとおした人たちがいるからマスコミも「北朝鮮朝鮮民主主義人民共和国」と表現するのが理解があることだとなったじゃないですか。

念のため、「害」も調べました。
[一]動詞
(1)そこなう。(ア)損傷する。こわす。(イ)侵犯する。おかす。(ウ)殺す。
(2)こわがる、おそれる。
(3)妨害する。さまたげる。
(4)都合が悪いと思う。にくむ。ねたむ。
(5)病気になる。わずらう。
(6)不安定な情緒になる。いやな気持ちになる。
[二]名詞
(1)災禍。わざわい。「利害」「水害」
[三]形容詞
(1)有害な。悪害をなすさま。「害虫」「害鳥」
(以下略)

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クリスチャンの女性蔑視

某所である牧師さんから、こんな話を聞きました。
「配偶者の呼び方としてベストな表現は『おつれあい』なのだそうで、妻は『つまらない者』、奥さんは『奥にいる者』、家内は『家の中にいる者』など蔑視の表現だそうだ。ある神学校ではみんなそうしているのだそうだ」

そういう日本語に不自由な人たちが、その神学校を巣立つと、日本で日本語を使って日本人に宣教するのだなと思うと、なんというか、1%の壁を越えられない理由のひとつを見たような気がしてしまいます。

いくらていねいに「お」の字をあたまにつけても、「連れ合い」とは「主たる者」がいることを前提とした「従たる者」を表す言葉でしかないでしょうに。蔑視というなら、「おつれあい」は配偶者に主体性を認めていない蔑視表現でしょう。

「妻」が「つまらない者」だというのも、ベタなダジャレです。古典の授業をまともにうけた人なら、「夫」も「つま」と読むくらいは知ってると思うのだけど。
…などと強気なことを言いましたが、念のため、高校時代に買った三省堂の「例解古語辞典」を引いてみました。
つま【夫・妻】配偶者。
[用例](b)「ただ独【ひと】り い渡らす児【こ】は若草のつまかあるらむ」[万葉九・一七四二]
[要説]男に対しては妻、女に対しては夫が「つま」である。
用例bの解説として「河内の大橋を独り行く少女【おとめ】を見る歌」と題詞があることが書かれていました。私訳を試みるなら「ひとりで橋を渡っていくあの娘は夫【つま】のある身だろうか」というところでしょうか。
ちなみにすぐそばに「つまごひ【妻恋ひ】」という項目もありました。こちらは妻という字があてられているというのに、意味は「夫婦が互いに相手を恋い慕うこと」とあります。
あ、念のためですが定価1400円の古語辞典で、進学校でもなんでもない偏差値50切るかというくらいの公立校出身ですので。

「刺身のつま」などの表現から「つまらない」というベタな連想をしたのかもしれません。たしかにあれも漢字で書くなら「妻」です。ただし手元の国語辞書では「一般にかなで書く」とありますけど。
それに刺身のつまというのはむしろ「それがないとどうにも格好がつかない、おさまりが悪い、なくてはないパートナー」としての「つま」でしょう。薬味しかり、大根もその消化を助ける酵素があるからこそのつまです。
なんか、「配偶者をつまと呼ぶのはけしからん」というのは「男を助ける者として女をつくった神はけしからん」というのと同じに聞こえます。神は女を「あってもなくても同じつまらないもの」として男に与えたのではなく、なくてはならない助け手として与えたのだと思っていたのですが、この聖書理解はおかしいですか?

「奥さん」という呼び方のはじまりは調べていません。調べようとも思わないくらい、なぜ「奥にいる者」がなぜいけないのかが理解できません。
ビジネスマナーの本やサイトを見てみてください。どれだって、入口からみて一番奥が一番の上座です。大事なものほど奥に置かれるのではないでしょうか。「神の箱」などはかなり奥におかれましたよね、幕屋や神殿の中の、聖所の中の、至聖所という。もしかして、配偶者を奥と呼ぶのは神格化だからいけないということでしょうか。
奥がダメだとすると「嫁」という字はすばらしいですね。女は家の外にいろとばかり、屋根の下にもいれないくらい独立させています。

「家内」がダメということは「平安」もダメということですね。だって「安」の字は屋根の下に女という字形ですから(う冠は家を現します)。
ちょっとググっただけも「なんとか平教会」というのがたくさん見つかりますが、そうした教会は女性蔑視をおおやけにしているのだから「なんとか平あん教会に改名しろ、ということなのでしょう。
(ところで、新改訳などでは「平安」と訳されていた箇所が新共同訳では「平和」になったのは、「安」の字を忌避したものでしょうか。もしそうなら、ある意味立派なものです。)

「家内」や「安」に比べても、屋根の下ではなく家の外に女がいる「嫁」という字はすばらしいということになりますね。どこかで「嫁という字は女性蔑視」という話を聞いたような気がするのだけど、、、きっと気のせいですね。

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教会歴? 教会暦?

教会暦というカレンダーがあります。キリスト教のカレンダーで、西方教会(カトリックと、その流れを汲むプロテスタント系)では、降誕祭(クリスマス)を待望する季節「待降節」から一年が始まります。典礼暦ともいいます。

カレンダーですので、「暦」が正しいわけですが、ググってみると。。。

"教会暦"23,400件
"典礼暦"5,220件

"教会歴"1,230件
"典礼歴"674件


「教会歴」というと、「私が今まで出席・転籍してきた教会遍歴」という意味でなら通じるかもしれませんが、少なくともバッハの「教会暦によるオルガン・コラール集」を「教会歴による…」と書くのは間違い。(「バッハ "教会歴による"」で583件もヒット)

「典礼歴」は、「キリスト教における典礼学の発展の歴史」みたいな意味かもしれませんが、少なくとも「典礼暦による聖人略伝」という本を「典礼歴による…」と書くのは間違い。(「"典礼歴による聖人略伝"」で205件ヒット。)

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ひとことで台無しになった名曲

近年よくあちこちの教会で聞く「きみは愛されるため生まれた」という歌があります。
教会によっては「賛美歌」と呼んでいますが、歌詞は神を賛美する歌というよりも、人の尊厳を賛美する歌。だから教会以外でも耳にすることが少なくないのでしょう。賛美歌ではないとは言っても、クリスチャン好みのよくできた歌ではあると思います。

聞くところでは、これは外国曲を邦訳したものだそうですが、翻訳詞というのは一目瞭然ですね。もし詩人が母国語でつくったものだとしたらあり得ないだろうひとことがまぎれこんでしまっているからです。

この現代口語の歌では「きみは」という言葉が多用されていますが、その中に唐突に「われらの」という言葉がでてくるのです。
「きみ」が文語表現で使われないわけではありませんが、「われら」というひとことで歌全体がギクシャクしたものになりさがってしまった感じは否めません。
日本語を母国語とする人による、訳詞ではなく作詞だったなら、この歌詞で「われら」は使わないでしょう。

私は言語やなにかの専門家ではありませんが、現代の日本語では二人称で「きみ」を使ったら一人称は「ぼく」を使うのが自然ではないかと思います。私の感覚が常に正解だなどといううぬぼれはないけれど、まあ私だったら「ぼくらの」としたでしょう。

「それでは女子が歌えない」などというのは逆差別主義者くらいなもので、確かに「ぼく」は主として男子/男性が使う一人称ですが、たとえば「ぼくらはみんな生きている」を女児は歌えないということはないでしょう。
それ以前に「きみ」だって主として男子/男性が使用する二人称ですし。

勘繰れば、「ぼく」を使いたくないというだけで安易に3音節の二人称複数を選んだのではとさえ思ってしまうのですが、百歩ゆずって「ぼく」をNGにするとしても、せめて「わーれーらのー」の部分を「わたしたちのー」とするなどの工夫がなされていたらと思います。いい歌なだけにもったいない。

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