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冷やし中華とプロテスタント

wikipediaによると、冷やし中華は1937年に仙台の「龍亭」で開発されました。ただし関西では、京都の「中華のサカイ」が1939年から「冷麺(冷やし中華のこと。韓国の冷麺とは別モノ)をメニューに載せていて、関東以北の「冷やし中華」とは異なり独自に発展したとする説もあるそうです。
ここで仮に「1937年には仙台で冷やし中華が作られていましたが、1939年を基準として今年2009年は『日本・冷やし中華70周年』です。」というお祝いが始まったとしたら、誰だって首をかしげるのではないでしょうか。

もちろん冷やし中華の場合はこれは仮の話で、「全日本冷し中華愛好会」も龍亭を「冷やし中華発祥の地」としているそうです。
ですが、キリスト教界では今年「1846年には沖縄でイギリス人のプロテスタント宣教師がキリスト教を伝えましたが、長崎と横浜でアメリカ人のプロテスタント宣教師がキリスト教を伝えた1859年を基準として、今年150年は日本プロテスタント宣教150年です」ということで、7月に横浜などでイベントが開かれたのです。
以前にも触れましたが、日本キリスト教協議会のWEBサイトのエキュメニカルカレンダーというページの7月5日のところに、今日(2009年8月28日)現在で次のように書かれています。
1859年、アメリカ聖公会、アメリカ長老教会、アメリカ・オランダ改革派教会の宣教師たちが、長崎と横浜に到着しました。その時から数えて今年は、150年になります。それ以前の1846年には、英国海軍琉球伝道会派遣の宣教師ベッテルハイムが琉球の那覇に上陸し、8年間、宣教活動を行っており、これが日本のプロテスタント宣教の始まりでもあります。
(中略)
 これらのことを覚えつつ、日本プロテスタント宣教150周年記念大会が、日本キリスト教協議会(NCC)、日本福音同盟(JEA)、日本リバイバル同盟(NRA)に加盟している多くの教派・団体によって準備され、7月8日(水)~9日(木)に、パシフィコ横浜において開催されます。
つまり、1846年に宣教師ベッテルハイムによって琉球で宣教が行われましたが、それはまあいいとして、1859年から数えて150年の今年に「日本プロテスタント宣教150周年」を記念します、ということなのです。(そもそも、「エキュメニカルカレンダー」というページで「プロテスタントの」宣教150周年を祝う告知をすること自体、エキュメニカルではないような気がしなくもないのですが。)

先ほどの冷やし中華の話で言えば、「日本の冷やし中華は1937年に仙台で始まった。ただし関西では1939年に京都で始まったものが一般的なので『西日本・冷やし中華70周年』を祝います」というなら、何も不思議ではありません。同じように「日本のプロテスタント宣教は1846年に沖縄で始まった。ただし本土では1859年にプロテスタント宣教が始まったので、『日本本土プロテスタント宣教150周年』を祝います。」というなら、間違ってはいません。(今さら沖縄と本土を区別することの必然性はともかくとして。)
けれど、沖縄にどんな歴史があろうと横浜長崎で始まってからが日本での歩みなんだ、と言っているわけですね。沖縄は日本に含まれないと。

素直な感想として、「2009年は日本プロテスタント宣教150周年」と言う人には、「日本が沖縄にしてきたこと」とか「歴史認識」ということを言う資格はないだろうと思います。

実は6月13日のことですが、東京・銀座の教文館で「ベッテルハイムの琉球伝道」というフォーラムが開かれました。上記のようにNCCは沖縄を切り捨てているわけですが、NCC教育部という組織がこうしたフォーラムを主催するということにも興味があり、それ以前に歴史好きとしてのぞいてきました。
その時のことはまた機会を見つけて書こうと思っていますが、結論から言うととても有意義な時間をすごすことができました。特に、クリスチャンではない歴史学者によって基調講演が行われるという、「その時そこで何があったのか」を宗派間の解釈の違いどころかそもそも護教的な視点さえなく聞けたのがよかったです。

で、それとは別に興味深かったのが、質疑応答の時間でした。
上記引用中のパシフィコ横浜での記念大会の関係者が来場していたのですが、そうした方たちから質疑応答の中で「150年を記念する中で、沖縄の宣教の歴史もおぼえる」ということを言ったのです。
キリスト教用語で「おぼえる」というのは、これから暗記しましょうという意味ではなく、あらためて心に思うというか、思いをいたすということなのですが、どう考えても、それは逆でしょう。「1846年をスタートとしてそこから現在までの時間の中で、その間にあった1859年の横浜や長崎でのスタートのこともおぼえる」というならわかりますが、1859年の横浜長崎を「日本のプロテスタント宣教のスタート」としている時点で、それ以前のことはなかったことしているわけです。なかったことにしておいてそれをおぼえるというというのは、上記引用中でベッテルハイムの沖縄宣教を「これが日本のプロテスタント宣教の始まりでもあります。」といっているその「でも」と同様に、意味不明です。

NCCのWEBサイトで公開されている声明文を見るたびに、この団体は「自分たちの見たいものしか見ない人たち」だとかねがね思っていたのですが、相変わらずなのだなと思います。
もちろん上記引用のとおり、これはNCCだけのことではなく、私が籍を置いている教会が所属している日本同盟基督教団が参加しているJEAもこの沖縄切り捨てに加わっていました。普段は客員教会員となっている別の教会に出席しているのですが、先日久しぶりに平日夜の祈り会に行ったところ、教会の婦人たちで横浜の教会へツアーに行ってきたと嬉々として感謝報告がされていました。もちろん横浜にとっては150周年だから何の問題もありませんけど、それを「日本のプロテスタント宣教150周年」の文脈で語られてしまっては、嘆息するしかありませんでした。
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故人に対する影響力

「人が、その死後にどのように扱われるか」が、故人本人にどのように影響があるのだろう、ということを考えています。

たとえば、日本ではクリスチャンそのものが少数ですが、その中でも「家族の中で自分だけクリスチャン」ということはよくある話です。
葬儀を主催するのは故人ではなく喪主ですから、このような場合には、故人がクリスチャンだったとしても「うちは○○宗だから」ということで仏式で葬儀が行われることも少なくありません。こうして故人は、たとえどんなに篤いキリスト信仰を持っていたとしても、仏教徒として葬られるのです。しかも丁寧に、出家の証である戒名までつけてもらいます。

こうしたことに対し、教会が「故人はクリスチャンだった」といって、仏式葬儀の無効を求めたり、墓碑銘から戒名を削り取るように求めたりする裁判を起こしたという話は、私は聞いたことがありません。なぜでしょうか。
法律にはド素人の私の推測になりますが、理由はいくつか考えられます。
第一、司法制度上、遺族でもなんでもない教会は原告になりえないということなのだろうということ。
第二、司法が扱えるのは基本的に法律に定めがあることについての是非であって、「宗教的にどちらが正しいか」といったことはそもそも裁判になじまないということ。たとえば「マリアは崇敬の対象となるか」とか「修行しなくてもお念仏するだけで浄土にいけるか」ということを司法が判断することはできないわけです。
第三、「人権」は生者の権利であって、死者には人権はないという考え方が一般的であること。つまり「信仰の自由」が保障されるのは生者だけで、死者には適用されないということなのだろうということ。
ただ、こうした司法上の理由だけで教会が訴えないのでしょうか。
第四に、本人がどのような信仰を持っていたかだけが問われるのであって、死後に周囲がどのような扱いをするかは何の影響もないこと。
というのが、もっとも根本的な理由なのだろうと思うのです。
そうでないなら、たとえば仮に「生前にどれほどキリスト・イエスを信仰していようとも、仏式で葬儀され、戒名をつけられ、成仏を祈念されてしまったら、故人はキリスト教の『天の御国』ではないところ(西方浄土かどこか)に入らされてしまう」ということなのだとしたら、司法上の制度や習慣がどうあれ教会は何とかしなきゃいけないのではないでしょうか。
でも聖書には[人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。]と書かれています(ローマ書10章10)。生前に信仰告白すればすでに救われているのです。また、世の終わりのときには、すでに死んだ者もその時点で生きている者も、天国行きか地獄行きか裁かれることが書かれている一方で[御子を信じる者は裁かれない。]とあることから、クリスチャンの場合は死後ただちに天国に移されると考えられます。だとすれば、死後に周囲がどのように扱おうとも、故人には影響ないことでしょう。
私の場合は家族もクリスチャンですが、仮に私の死後に仏式で葬儀が行われ、成仏を祈念されたとしても、その頃には天国でキリストの御許にいて「私はそっち(浄土)にはいないのに」と思うだけでしょう。

ところが、こう考えるだけではどうにもわからないのが、靖国神社合祀取り下げ訴訟に対しての日本の教会の対応なのです。
合祀取り下げ訴訟
原告がクリスチャンの場合も、クリスチャンではない原告をクリスチャンや教会が支援している場合もあるようですが、いずれにしても「靖国神社にまつられているという状態の解消」を、クリスチャンが求めるというのはおかしいのではないかと思うのです。
原告も祀られている故人もクリスチャンの場合、「靖国神社の霊璽簿に名前があるうちは、故人は『キリスト教の天国』には行っていない」ということなのでしょうか。だれが天国に行くか(行ったか)は、人間にすぎない私たちが云々できることではないのですが、それにしても「命の書」に名前のある人でも、もしも「霊璽簿」にも名前が書かれると、天国ではなく靖国神社に行ってしまうという考え方は、私には理解できません。
それに「霊璽簿から名前を消せ」とは訴えるけれど「墓碑銘から戒名を削れ」とは訴えないというのは、靖国神社で扱われた故人のためには行動するけれど仏式で葬儀された故人は差別するということですよね。
クリスチャンではない原告をキリスト教が支援するというのも理解できません。「霊璽簿は『命の書』より力がある」というかのように支援するのが、伝道になるのでしょうか。靖国神社には手も足も出せない領域がある、招魂祭や霊璽簿よりはるかに力ある方がおられる、ということを伝えるのが伝道ではないかと思うのですが。

「キリスト者平和ネット」の人たちの考え方

すでに先月のことですが、「内閣府にGO!」と大きく書かれたチラシをさる筋からいただきました。
ビラ
このチラシ、文中のことばから察するに「宗教者ネット・キリスト者平和ネット」によるもののようですが。

「ソマリアに海賊が多いから、自衛隊でとりしまる」という論理はずいぶんと飛躍があるように思う、と。それはそうでしょう。これでは「風が吹けば、桶屋がもうかる」というのと同じ。わざと途中を全部すっとばしているのだもの。

酔っ払い運転に追突された車が川に落ち子供を含む死者が出たことが、危険運転致死傷罪という法律ができる契機のひとつになりましたが、これを「子供がおぼれたから、道交法厳罰化」と言えば「この論理には、ずいぶんと飛躍があるように思え」ることでしょう。

「ウソではないけれど、情報を取捨選択することで、自説に都合よく表現する」というのは、朝日新聞だとか、最近ではNHKなどがよく(しかも露骨に使)う手法。こういうのは、一つ怪しいところに気づいたらほかにも何かあると注意したほうがいいものです。この短い文章の中にも多くの箇所でこうした、よく言えばテクニック、ようするにカラクリが駆使されています。

まず、さりげなく憲法を拡大解釈しています。
現行の日本国憲法第九条には「国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と書かれています。「紛争」ではなく「国際紛争」を解決するための武力を放棄するとあるのです。
「紛争解決」も「国際紛争解決」も似たようなものじゃないか、と思われるかもしれませんが、似ているということは同じではないということです。念のため辞書で確認してみましょう。
紛争:事がもつれて争いになること。個人や集団の間で、対立する利益や価値をめぐって起きる行動や緊張状態をいう。もめごと。
国際紛争:国と国との間に起こる紛争。広くは戦争も含めるが、普通、戦争にはいたらない程度のものをいう。

国際紛争とは、紛争の中でも国と国との間に起るものだけを指していう言葉です。日本国憲法が規定しているのはこの、国と国との間に起る紛争だけなのです。

私見、というか個人的な想像になりますけれど、憲法を起草した人たちはおそらく(「国際」かどうかということを超えて)「軍事力をもちいて争いごとを解決しようとする発想を放棄すると」いいたかったのだろうと思います。というか、思いたい。
でも憲法条文は現実として「国際紛争」のための武力しか禁じていません。それを「(すべての)紛争」に適用しようとすることは憲法の拡大解釈ですし、こうした「社会派」と呼ばれる人たち自身も憲法や法律の拡大解釈には反対してきています。(実際には「社会派」の人たちも拡大解釈するのが大好きで、たとえば靖国神社に関して憲法89条を拡大解釈したりします。結局「私たちは拡大解釈するが、私たちと主張が違う人たちには拡大解釈はさせない」あるいは「私たちの主張に都合のよい拡大解釈はゆるされるが、私たちの主張にあわない拡大解釈はゆるさない」という考えの人たちなのでしょう。)

海賊という「犯罪」を「紛争」であると主張するカラクリも隠されています。
紛争とは先ほど辞書から引用したとおりの意味ですが、いったい、非武装の商船をマシンガンやミサイルで襲う海賊行為のどこが「対立する利益や価値をめぐって起きる行動や緊張状態」なのでしょうか。海賊は単なる犯罪、しかも強力な武器を手に殺人も辞さない者たちによる犯罪です。
海賊行為をはのさばらせてでも自衛隊派兵を中止させようという意図も隠されています。
この人たちは「ソマリアに海賊が多いからといって、自衛隊を海外派兵して取り締まるのはけしからん」とは言いますが、「自衛隊を送るのではなく、これこれの方法で海賊に対処するべきだ」ということは一切言いません。つまり「ソマリアに海賊が多くたっていいじゃないか、とにかく自衛隊が行くのがいけないんだ」「海賊が船を襲おうと、それで乗組員がどれだけ危険にあおうが怪我しようが死のうが、放っておくべきだと」と言っているわけです。
さきごろ帰国した第一次派遣隊は、日本関係船舶を計41回121隻、護衛したと報道さましたが、宗教者ネット・キリスト者平和ネットは「自衛艦が護衛した121隻は海賊に襲われるままにしておくべきだった。どれだけの乗組員がいたか知らないが、全員、海賊に殺されるなり人質にされるなりすればよかったのだ」と主張しているのです。

「宗教者平和ネット」というのがどういう信仰を持つ人たちかわかりませんが、「キリスト者平和ネット」と名乗るにしては妙な言葉遣いもしています。
「祈りの要請行動」「祈りは非暴力手段による平和づくりの源」と言っていますが、タイムテーブルを見てみると。「祈り」はつけたしじゃん、とまでは言いませんが、「祈り以外の部分」に強く比重があるように感じてしまいます。時間配分だけをみても、「要請行動ののち、シメにお祈りしましょう」というくらいにしか思えないのです。やっていることは単に「要請行動」であって、形容詞として「祈り」とつけているだけに感じてしまうのですが。(要請行動が悪いと言っているのではなく、要請行動を「祈りの」と形容する意図を怪しんでいるのです)
それとも「祈りの要請行動」というのは「祈りとしての要請行動」、「要請行動という祈り」ということなのでしょうか。だとすれば文章としては理解できますが、「祈りとしての・・・」「・・・という祈り」といったやり方はいくらでも応用がきく危険なものです。大戦中、米軍兵士の多くは従軍牧師の祝福を受けて空襲や原爆投下に出撃していったはずですし、それらは今も米国人クリスチャンの多くにとって「戦争を終わらせるための正しいアクション」なのですから、彼らにとっては「平和の祈りとしての原爆投下」「市街地空襲という祈り」なのです。

「首相官邸前での祈り」というのも、いわゆる「社会派」の牧師やクリスチャンには、聖書の特定の箇所をあきらかに無視していると感じさせられることが多いのですが、マタイ6章5,6をどのように解釈しておられるのかたずねてみたいという気がします。
[偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。][祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。]

ファッショ化するキリスト教

当事者から聞いたのですが。
日本同盟キリスト教団に所属する、戦前から続くある教会で、教会史をまとめたそうです。すると、この教会史の戦争に関する時代の記述について、「教団有志」という人たちがこの教会に、認識について説明を求めてきたとか。

この話を聞いた瞬間に私は「近い将来、この教団では、赤い腕章をつけた『有志』があちこちの教会をまわって『自己批判せよ』というようになるんだろうな」と思いました。

その教会史の記述がのようなものかは、拝見していません。でもそれがどのようなものであれ、この『有志』のやっていることは、「内村鑑三は不敬である」とバッシングした人たち、美濃部博士の天皇機関説を「不敬である」と叩いた人たち、与謝野晶子の「ああ弟よ 君、死にたもうなかれ」をバッシングした人たち、戦艦の保有数を制限する海軍軍縮条約に調印した政府を「トースイケンカンパン、カンパン」と攻撃した人たちと、やってることはまったく同じです。テーマが違うだけ。

念のためですが内村鑑三や与謝野晶子を叩いたのは、国家権力ではなく、市民と、マスコミと、有識者とか学識経験者といった人たちです。戦艦数制限も、野党の政府攻撃をマスコミと市民が「ケシカラン」の大合唱をしたものです。天皇機関説の場合は、一度は問題なしで議論が決着したものを蒸し返したのは政治的ですが、そこからケシカランの大合唱にしていったのはやはりマスコミと市民です。整理するなら、
・自分たちが「けしからん」と思うことを言ったりやったり書いたりしてるやつらは、黙らせる。
・必要なら(というかむしろ好んで)、吊し上げ、レッテルを貼って、見せしめにする。
・そうやって「自由にものを言えない空気」をつくる。
・これらはすべて、「そうすることは議論の余地なく正義なんだ」と本気で信じる人々がおこなう。


「自由にものを言えない当時の空気」の中でも筋を通すべきだったのに、というのはキリスト教関係者の戦争責任告白によくでてくる言い回しですが、日本同盟キリスト教団では「自由にものを言えない空気」をつくるべく、「有志」がご活躍中というわけです。

わざわざ「有志」とことわっているのは、教団としての圧力ではありませんよ、ということでしょう。
ただ戦前戦中、こうして市民やマスコミ、ときには野党までが「ご活躍」していたのを、軍部はほくそえんで眺めていたわけです。国家からムラ社会にいたるまで、リーダーたちにとっては「自由にものを言えない空気」というのは便利なものであるのは確かなわけです。
日本同盟キリスト教団ではこの数年来、教団と各教会の関係について中央集権化を推進してきています。そのこと自体は、より同盟者が結束して宣教にあたれるようにという利が確かにあるものでしょうけれど、それでも教団中央にとっては「自由にものを言えない空気」を作ってくれる人たちというのはありがたいものでしょうね。

ちなみにwikiwikipediaによると、ファッショとはイタリア語で「たば」を意味し、そこからファシストは「結束した同盟者」の集まりという意味になるそうです。「日本同盟キリスト教団」という名前自体こうなることを期してのものだった、とは思いたくありませんが。

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ある説教者の、うつ病についての見解

少し前のことですが、ある礼拝で、某神学校を今春卒業し現在は聴講生として学びを続けているという方のメッセージを聞く機会がありました。
評価するような言い方は失礼かとも思いますが、語り方が少々ぎこちないとか、今一つ深みがないというのは今後の経験でしょうけれど、「汝の敵を愛せ」というよくもちいられる箇所のわりには「どっかで聞いたよ」ということもなく、といって奇をてらうこともなく。また勉強中とはいえ仕入れたばかりの知識を不必要にひけらかすこともなく。真摯に御言葉に取り組もうとしている人なんだなと感じさせるものではありました。

ただ、メッセージの中で、最近では日本人の10人に1人はうつ病と言われるが、それは「ああしてくれない」「こうしてくれない」という求めが満たされないからと周囲を敵にしてしまって、愛せないからではないのか、と言われたのには引っ掛かりを感じざるを得ませんでした。
確かに、うつ病を含めて「心の病」と呼ばれるものを、「汝の敵を愛せ」からアプローチするなら、そういう理解になるのかもしれまさん。でもそもそも、心の病に「汝の敵を愛せ」からアプローチする必要があるのでしょうか。

心の病というのは、世にあってはもっとも無理解によって苦しめられてしまうことのひとつです。外見的には病気であることがわかりにくいために、「甘えだ」「怠けている」といった無理解に苦しめられ、いっそう状態を悪化させられ、という悪循環に悩んでいる人たちです(雅子殿下や一時期の朝青龍が典型的な例でしょう)。私は専門家でもなんでもありませんが、こうした人たちに必要なのは理解と治療であって、少なくとも聖書を片手に「あなたがうつ病なのは、敵を愛せないからです」と追い詰めることではないだろうと思うのです。

キリスト教は弱者に寄り添う宗教でもある、とあちこちで聞いていたのですが、このメッセンジャーが学んだ神学校ではそうしたことを教えていないのかどうか。
もっともこれは、神学生だからという問題ではないかもしれません。これも実際に知っている話なのですが、ある人が教会に相談に来たとき、牧師(大ベテランです)はこともあろうに「あなたががんばらないとね」と言いました。自分ががんばらなきゃいけないくらいわかっていて、それでももうこれ以上がんばれないから相談にきたというような人に、重荷をおろさせるどころかさらに重くさせるベテラン牧師。その人は、私の知る限り二度とこの教会に来ていません(どこか別の教会で、心の病というものがちゃんとわかっている牧師に出会っていてほしいと祈るばかりです)。

肉体の病気の治療が専門的なスキルを必要とするのと同様に、心の病の治療にも専門的なスキルが必要だ、ということを理解しない教役者って構造的に少なくないのではという気もします。実際、(今はどうか知らないのですが)しばらく前に別の神学校の出身者に聞いたのですが、当時その神学校では牧師になるのにカウンセリングは必修ではなかったそうです。
「牧師は人の内面の問題をオールマイティに解決する。適切な聖句を適切に語れば、それができる。」ということになっている(牧師本人にとっても周囲にとっても)のかもしれません。

最初のメッセンジャーの話に戻りますが、少なくとも、私の近しい人でかなり長いことうつ病と戦っている人がいるのだけれど、あの人には聞かせられないと思いました。いずれどこかの教会で牧会することになる方なのでしょうけれど、その教会が心身とも健康な人だけであればいいけれどと思います。

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