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音楽のパワー

録画しておいた「歴史秘話ヒストリア 日本を救った遣唐使・吉備真備」を再生。
すると。

「西暦2199年」という文字が大写しになると同時に、あの魂をゆさぶるメロディーが!宇宙戦艦ヤマトの主題歌のイントロが!
画面はおなじみの、ガミラスの攻撃によってオレンジ色に干上がった無残な地球。そこにかぶせられた字幕は「滅亡の危機にひんした地球」と。
予約録画を間違えたかと思う間もなく、画面はヤマト艦橋内を艦長席から見下ろすあのカットとなり、字幕は「人類を救うべく」。
そしてさらにおなじみの、ヤマトの全身を左舷下方から見上げるあのカットとなって、「一隻の艦(ふね)が飛び立つ」と。

ここでイントロ部分が終わるとともに音楽は終わり、暗転した画面に「今から1300年前」。
そして「故郷の存亡を担って旅立ったもうひとつの船(ふね)があった」という字幕とともに、遣唐使船がフェードイン。

ああ、なるほど。
やられた。
もっとはやく見抜けて当然のベタな演出に、まんまとやられてしまいました。

なんなんでしょう、あの曲のメロディが持つパワーって。
今こうしてケータイで文章うってるだけでも、感動で目尻に熱いものが。もともと涙腺のゆるい感動体質なのですが、ここまで反応してしまうのはあの曲くらいなものです。

作曲した故・宮川泰さんの葬儀のおり、宮川さんと親交のあったブラスバンド(50人規模)が出棺の際にヤマトを演ったという話を聞いただけで、(曲を聞かなくてもそのニュースだけで)感動したし。

宮川さんといえば40代くらい以上には、紅白歌合戦で「蛍の光」の指揮をニコニコしながらやってたおじさんというほうが伝わるかもですが、私にはやっぱりヤマトです。
中学時代には吹奏楽部で、エイトミュージック版をはじめ何種類ものアレンジや「交響組曲 宇宙戦艦ヤマト」も演りました。でも当時よりも今のほうが、あのメロディで熱いものがこみ上げるようです。

私が、もしも万が一、キリストの再臨よりも前にこの世を離れるのなら。その時は、二番煎じになりますがあの曲で送り出してもらえたらいいですね。もちろんCDでいいですから。
ダメ?何か賛美歌にしろって?やっぱり?


(吉備真備の話はどこにいったんだっけ?しかし「吉備真備」が一発変換で出るとは、ケータイもすごいな。)
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クリスチャン的、万葉集の読み方

NHKの「日めくり万葉集」、先日の放送のとき「我ながらどうしてこう、何でもかんでも聖書に結びつけたくなるんだろう」と思いました。反射的な習性かもしれません。
ある牧師さんが、KANが歌った「愛は勝つ」を聴いて「これはヨハネ伝だ」と言ったそうです。そんな感じで、その日の放送を見て「これ、このまま再臨待望の讃美歌」と思いました。

我が背子が
帰り来まさむ時のため
命残さむ
忘れたまふな

背子というのは夫のこと。妻が「あなたが帰ってくる時のために生きていますから、どうぞ忘れないでください。」と歌ったものです。(番組ではもっといい感じに現代語訳されてたと思います。)

クリスチャンで勘のいい方だと、もう何を言いたいかわかってしまったかもですが。

「我が背子」は、花婿なるキリスト。

そのキリストが「帰り来まさん時」とは、キリストが再び来られる再臨の日。

「キリストにおいて救いに与った命」を再臨まで保とう、「最後まで耐え忍ぶ者」目指して信仰を守ろう。(ここだけはちょっと強引かも)

最後の「忘れたまふな」ですが、聖書で「忘れる/思い出す」は、ただ心に留めているかどうかを越えて具体的な行動まで含めて使われています。詩編などで神に向かって「思い出してください」というとき、神が忘れていると思っての叫びではないし、思い出してくれるだけでいいというのでもなく、具体的に助けてくださいという意味ですね。
旧約のヨセフを給仕長が「忘れた」というのは「見捨てた」という具体的な選択ですし、「思い出した」ときには具体的にヨセフのための行動を起こしたわけです。
十字架上でキリストに「私を思い出してください」と言った罪人も、ただ思い出して懐かしがってくれればということではなく、陰府から救い出してください(あなたにはその権威があることを信じます)という信仰告白でしょう。
そういう角度から「忘れたまふな」を読むなら、これは「マラナ・タ(主よ来たりませ)」だと思うわけです。

作曲の素養があればぜひ曲をつけたいところです。
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矢野顕子と聖書

NHK教育TVの「佐野元春のザ・ソングライターズ」が好きで、よく見ています。
どういう番組かというのは、毎回冒頭でモトハルが語るナレーションを紹介したほうが早いと思います。
こんにちは。佐野元春です。
ザ・ソングライターズ。この番組では 国内のすぐれたソングライターたちをゲストに招き、話を聞きたいと思います。
会場はぼくの母校、立教大学の教室です。毎回、音楽や文学に興味のある学生たちが参加します。
テーマは歌詞。つまり音楽における言葉がいったいどのように生み出され、多くの人に届いていくのか、学生たちと探求していきます。
ぼくはポピュラー音楽のソングライターこそが、現代の詩人なのだと思っています。
(淡々とした静かなナレーションなのですが、それでもやっぱり最後に「I wanna be with you tonight!」と言ってほしくなる、というのは置いといて。)
NHKでは「アンソニー・ホプキンス自らを語る」などのタイトルで映画スターにインタビューしていく番組をやってるけれど、そのソングライター版という感じです。

2009/9/5放送は、矢野顕子のPart1でした(どのゲストのときも、part1はモトハルとゲストの語らい、part2は質疑とワークショップという2回構成になっています)。
実は今まで矢野顕子にはあまり興味を持っていなかったというか、「二人のハーモニー」なんかは好きだったけれど基本的には、流れていれば聞くけど自分からチョイスしようとまでは思わないミュージシャンでした。それでもこの番組でソングライターたちが語ることばっていつも面白いので、今までも何人か「これまではそんなに関心がなかったゲスト」のときも視聴したように今回もチェックしてみました。

印象に残ったところがあったので、メモしておこうと思います。
佐野:この愛と寛容っていうのは、やはりぼく、矢野ソングライティングにとって大事なテーマだと思うんですけれども。 矢野さんはLove isって曲で、聖書の中のコリント人への手紙13章にメロディーをつけて歌われてますね。

(ナレーション:矢野顕子さんが1993年に発表した、Love is。矢野さんは、聖書に書かれた、コリントの信徒への手紙一13章の一部にメロディをつけて英語で歌いました。この一節は、キリスト教の愛をたたえる言葉として知られ、結婚式などでも朗読されています。)

佐野:ぼくの理解でいうと、コリント人への手紙一13章っていうのは、愛と寛容について語られたことの大事な一節だと思ってます。

矢野:そうですねぇ。 あの、自分自身がクリスチャンなので、その、『矢野顕子さん、愛ってなんですか?』って言われたときに、わたしが答えることは、わたしが、なんかその無い知恵を絞りいろいろ考えるよりも、この、えっとコリント人への手紙の中に書いてある、この愛の定義?のほうがはるかに、えー、うまく言えていると思うんですね。それで、これすごいのは、愛は、わたしたち普通、愛って言うとなんか、やさしいとか、なんか、楽しいとか、そういうイメージがあるじゃない? それが一番最初『愛は辛抱強く、親切です』。一番最初に『えぇ?ガマン?』って。わたし、ここすごくいいなって思うんですね。 ですから、あの、ま、これに限らず、人生の大きな問題に関しては、私は自分でコチョコチョこう考えを作り出すよりは、この、すでにある、この愛の定義から基づいたものの方がはるかに賢いと思っちゃうのね。これは英語で歌ってるんですけど、最後『Love never failes』っていう、『愛は決して絶えない』っていうあそこまで歌うとやっぱり、『はあー』って思いますね。ええ。何があろうが何だろうが、やっぱり、愛って言うのはこう、注ぎ続ける、生まれ続けるものだっていう。それが、うん、いいなと思っちゃう。
矢野顕子がクリスチャンというのも知らなかったのだけど、とりあえず「Love is」は聞いてみようかな。
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ちなみにpart1の再放送は9/12(土)昼12:00-12:30、part2の放送は同日夜23:25-23:55です。

NHK教育が問う、イスラムとユダヤの共存

NHK教育の「テレビでアラビア語」。今まで見ていたわけでもないのですが、9月8日放送の第24課はサブタイトルに釣られて初めて見てしまいました。
「将来も彼らと共存できますか?」だなんて、これは「彼ら」が指すのは、ユダヤ教徒またはイスラエル、あるいはキリスト教徒またはアメリカだろう、と思ったのです。

予想は当たりました。冒頭の「今日のダルス」のコーナーでは、「アラブの中の異文化・モロッコ編」と題して、マラケシュにあるシナゴーグ、つまりユダヤ教の礼拝所を訪ねたのです。
しかもシナゴーグを訪ねたのは「アルジャジーラ子どもチャンネルリポーター ラニア・ジャンマール」とテロップされていました。映像自体が「アルジャジーラ子どもチャンネル」の撮影。アルジャジーラといえば、ビンラディンのビデオを配信するなど「イスラム原理主義武装組織(要するにテロリスト)アルカイダ」の代弁者であるかのように伝えられているメディアです。
まあ、アルジャジーラがテロリストというわけではないし、むしろ常に一方的で偏向した報道しかしない日本のメディアを考えると「アルジャジーラみたいのは必要だろ」とさえ思うのですが、それでもNHKがアルジャジーラの協力を得て番組を作っているというのは驚きでした。

でもそれ以上に驚いたのは、中身の良さでした。「テレビでアラビア語」の視聴率がどれくらいなのかわかりませんが、とてもいいと思ったので、以下に紹介します。

ラニアさんは、「モロッコの人口の9割以上はイスラム教徒ですが ここには 異なる宗教 特にユダヤ教との長い共存の歴史があります。きょうは ユダヤ教のシナゴーグにやってきました。イスラム教徒との共存の歴史について聞いてみたいと思います」と紹介したあと、シナゴーグ内へ。
中にいたのは、キッパを頭に載せた年配のユダヤ人。以下はラニアさんとの会話。
ラニアさん「私は モロッコでのユダヤ教の歴史に関心があります」
ユダヤ教徒「私たちは ずっと昔から イスラム教徒たちと暮らしてきました」
ラニアさん「では 将来も彼らと共存できますか?」
ユダヤ教徒「もちろん できます」

この「将来も彼らと共存できますか?」というところが「今回の重要表現 基本のイバーラ」でした。
文法的には「あなたたちは~できますか」「わたしは~できます」という構文なのですが、それを、イスラム圏のユダヤ人を引き合いに出して「共存」というテーマで例文にするという。しかもそれをあのアルジャジーラの協力によって作成しているという。NHKも大胆というかすごいというか。

番組の最後の「アラブの窓」のコーナーは、マラケシュのシナゴーグの礼拝の様子の映像から始まって、ユダヤ教ラビのジャッキー・カドシュさんにラニアさんがインタビュー。ラビというのは指導者のことで、お寺で言えば住職、キリスト教でいえば司祭や牧師のような存在です(宗教的指導者とも言われますが、生活が全部宗教に乗っかっているので、「宗教面においてだけの指導者」ではないのです)ラニアさんの「モロッコのユダヤ教徒の歴史について教えていただけますか?」という質問に、カドシュさんが答えます。
歴史的には 2つの節目があります。
最初は エルサレムの神殿が破壊されたおよそ2千年前です。これによってユダヤ教徒は離散の民となり その一部がモロッコに移り住みました。
もうひとつの節目はおよそ500年前 スペインとポルトガルからユダヤ教徒が追放されたときです。両国の国王は ユダヤ教徒に キリスト教への改宗を迫りました しかしユダヤ教徒は固く拒みました 当時のモロッコ国王は ユダヤ教徒に信仰の自由を与え 住宅の建設を許しました それで スペインとポルトガルからユダヤ教徒がモロッコに移住したのです
このあと、シナゴーグでの礼拝風景の映像にかぶせてナレーションが流れました
「現在 モロッコのユダヤ教徒は およそ3千人。そのうち250人がマラケシュで暮らしています。ユダヤ教ラビのカドシュさんは 代々マラケシュで続くラビの家系に生まれました」
ユダヤ教の礼拝風景が日本のテレビで流されるのも珍しいことでしょう。ナレーションのあと、ふたたびカドシュさんの言葉。
私はこの町に生まれ この町の小学校に通いました そこでは イスラム教徒と同じ教室で学んだものです
私たちは ここモロッコで 長い間 平和に暮らしてきました 宗教の違いを問わず 互いを尊重しながら 共存してきたのです
イスラム教徒と 私たちは 兄弟も同然なのです


イスラム教徒とユダヤ教徒が、モロッコでは共存してこれたということ。そこには、「キリスト教徒が絡んでいない」という理由があるのかも、と思いました。
エルサレムも、オスマン帝国が支配していた時代はイスラム教徒もユダヤ教徒もキリスト教徒も平和に暮らしていたのに、キリスト教国の十字軍がそれをぶち壊しにしたわけですし。
いやそれにしても、久しぶりにいい番組を見たなと思いました。
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NHK高校講座を見て、進化論の怪しさを思った

NHK教育テレビの高校講座に相変わらずはまっています。おもに文系の教科を見ているのですが、何の気なしに録画した生物の7月1日放送分が個人的におもしろかったです。「ホルモンと自律神経」の第1回でした。
何がおもしろかったかというと、体というのはよくできてるなというのもあるのですがそれより、進化論はやっぱり怪しいぞと思えて仕方なくなってきたのです。

などとクリスチャンがいうと「進化論が間違いだというなら、神が創造したという証拠を見せろ」と言われそうですし、実際に私は神による天地創造を信じているのですが、「進化論でなければ聖書、聖書でなければ進化論」などという二択ルールはどこにもないんですよね。「進化論は怪しい」と「聖書は正しい」はまったく別の話です。というわけで、今回は聖書には触れずに、進化論の怪しさを書こうと思います。進化論に関する私の知識は、それこそ小中学校レベルではあるのですが。

高校講座の話に戻ります。
ヒトの体は60兆もの細胞があるが「どの細胞が」「いつ」「どのくらい」働くかが保たれ、細胞が調和していることが大切、ということでたとえば発汗による体温調節は「(外部環境が)暑いとき」「汗腺が」「体温を下げる(一定に保つ)のにちょうどよいくらい」働くということでした。
ここで、それぞれの細胞は、いつ働いたらいいか、どのくらい働いたらいいかわからないといけないわけですが、その情報を伝える仕組みとして、自律神経による情報伝達の仕組みと、ホルモンという物質による情報伝達の仕組みがあります。

ホルモンは、内分泌細胞(内分泌腺)から分泌され、血液によって運ばれて、働くべき細胞に届きます。ここでおもしろかったのは(でも当然といえば当然ですが)ホルモンを受け取る細胞は、ホルモンごとに決まっているということ。ある内分泌細胞から出たホルモンは、そのホルモンをキャッチできる受容体を持つ特定の細胞(標的細胞)だけが受け取れて、受容体があわない細胞はスルーするのです。

さらに、脳下垂体と間脳(視床下部)は、他の内分泌腺(内分泌細胞)のホルモン分泌を調節する働きを持っています。それぞれの内分泌腺がどういうタイミングでホルモンを出したらいいかを調節しているわけです。
たとえば、間脳(視床下部)が、血液中のチロキシン(ホルモン物質のひとつ)が減っているのを感知し、「甲状腺刺激ホルモン放出ホルモン」を出す。これを脳下垂体前葉の受容体がキャッチして、「甲状腺刺激ホルモン」を出す。これを甲状腺の受容体がキャッチしてチロキシンを出す、という具合に階層構造になっている。

このチロキシンがどのような働きをするのかよくわからなかったのですが、最初の発汗の仕組みでいうと、次のような流れになっているのでしょう。
(1)脳下垂体とか間脳とかが、体温の上昇を感知する。
(2)階層構造を経て、汗腺細胞を刺激するホルモンが血中に放出される。
(3)汗腺細胞の受容体だけが、このホルモンをキャッチする。他の細胞の受容体はこのホルモンを受け取らない。
(4)汗腺細胞が働く(汗をかく)ことによって、体温が下がる。
(5)脳下垂体とか間脳とかが、体温の平常化を感知する。
(6)階層構造を経て、汗腺細胞を刺激するホルモンの血中への放出がおさまる。
(7)汗腺細胞の受容体がホルモンをキャッチしなくなる。
(8)汗腺細胞が働きを止める(汗をかくのをやめる)。

番組の話はここまでですが、ここでもし進化論が正しいのであれば、ある種の中で突然変異によって発汗による体温調節という機構を獲得した個体が現れ、その個体の子孫が他よりも生き残るのに適していたということで自然淘汰の結果として種全体が汗をかくことのできるようになった、ということになるはずです。
でもそれは、(1)から(8)をすべて同時に(つまり1世代の突然変異で)獲得したというのでしょうか。それとも長い時間をかけて一つずつ獲得していったというのでしょうか。

(1)から(8)を一つずつ獲得していくというのは、ちょっとありえないことのように思います。
(1)から(8)のすべてがそろってはじめて機能するのですから、どれか一つでも欠けている状態では、適者生存とか自然淘汰とかの上で「発汗による体温調節」はちっとも有利になりません。(1)だけを獲得した個体も、(1)以外のすべてを獲得した個体も、どれも獲得していない個体も、淘汰されずに子孫を残す可能性はまったく同等ということになります。
つまり、(1)を獲得した個体の子孫は何世代かあとには(2)を獲得し、ということになるとはいえないのです。(1)を獲得した個体の家系が(2)を獲得する前に淘汰されてしまう可能性は、(1)から(8)のどれも獲得しなかった個体の子孫と同じになるわけです。
とすると、(1)だけを獲得した個体が現れたが、その子孫が絶え、(2)だけを獲得した個体が現れたが、その子孫が絶え、ということが限りなく繰り返されます。
そのうちには、(1)を獲得した個体の子孫が(2)も獲得するということも可能性としてはありえるでしょう。けれど(1)と(2)を獲得したものの子孫が絶え、(2)と(3)を獲得したものの子孫が絶え、ということがまた限りなく繰り返されます。
こうして、せっかくの突然変異が何の意味もなく、ということが果てしなく繰り返された末に(1)から(8)のすべてを獲得した個体が登場して初めて、生存上で有利になるわけです。

今、説明のために(1)の次に(2)という順で話を組み立てましたが、実際には、(1)から(4)を獲得した個体はその時点で(5)から(8)を獲得していなければなりません。「汗をかく仕組み」を獲得する前に「汗を止める仕組み」を獲得しておかないといけない。つまり、やっとの思いで(1)から(7)を獲得したとしても、その個体は、(5)から(8)を獲得した個体よりも環境変化(暑さ)に弱いのです。いちど汗をかきはじめたが最後、氷河期になろうが脱水症状をおこそうが汗は止まらないという家系は、あっというまに淘汰されてしまいます。

こうなると、汗をかいて体温を調節するというたったそれだけのことのために、いったいどれだけの突然変異を繰り返さないといけないのでしょうか。突然変異というのはそんなに頻繁に発生するものなのでしょうか。(1)から(8)を一つずつ獲得していくというのは、数字の上では可能性はゼロではないと言われても「でもゼロも同然、限りなくゼロに近いじゃん」としか思えません。

とすると、(1)から(8)を一つずつではなく一度に獲得したのでしょうか。そのほうがまだ可能性があるように思えてしまいますが、今度は8つの突然変異が一度の世代交代で発生しなければならなくなります。

いずれにしても、いったいどれくらい突然変異がおきれば、汗をかいて体温を調節するということを進化の過程で獲得できるのでしょうか。せっかくの突然変異が無駄になる可能性の高さを考えると、世代交代のたびに突然変異を起こすくらいじゃないと間に合わないのではという気さえするのですが。
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